第10話
春人は今見ているものが夢だと理解している。
ありもしない現実、ありもしない幻想、ありもしない自分、それらすべて、ありえたかもしれない自分、可能性を見せられている。
勉強でトップになる自分、部活でトップになる自分、漫画のように相手を圧倒している自分。
それらすべてはこれまでの自分にはありえないもの。
自分は一番になる事を望んだこともないし、なった事もない。
ただ自分には無理だと決めつける事が嫌いなだけだ。
だから、努力をすることに手を抜いたことはない。
無理といえるのは、精一杯の努力をし、あらゆる可能性を模索し、あらゆる手段を講じたにもかかわらず達成されず、心が折れる時が本当に無理な事だと春人は思っている。
あるという事を証明する事は簡単だ。
目の前に証拠を見せるだけでそれは証明されたことになる。
しかし、ないという証明をすることは?証拠などない。
小さい頃にそのことに気づいた春人は、自分はがんばれば何でもできると思った。
できるという事を証明する事は簡単で、絶対にできないという事を証明する事は難しい。
なら、この世にはできる事しかないのでないかと。
「それは嘘だよ」
黒い黒い空間で誰かが言う。
姿は分からない。
全てが黒く塗りつぶされた世界ではなにも姿形を持つことはない。
「できないこと、無理な事、はあるよ」
また別の声が響く。
二つの声は別方向から聞こえてくるが、同じ声だった。
どちらも女の子の声。
その声に春人は聞き覚えがあった。
「できない事はないかもしれないね。でもさぁ~、必ず前に『将来は』がつくよね」
笑いながらまた別の方向から同じ声が聞こえる。
「無理な事もあるよね。前に必ず『今は』がつくけど」
また別の方向から聞こえた。
そして同じ声が別の言葉を発する。
それぞれ姿は見えないが、言葉が空間を満たしていく。
異口異音に言葉が重なって、春人には全てが聞き取れない。
しかし、春人はそれらの言葉を受け入れることはできない。
なぜなら受け入れれば、今までの自分は否定されることになるから。
これまでの自分を嗤ってしまうから。
これからの自分を嘆いてしまうから。
しかし、春人に声を出すことはできない。
今見ている事は夢だと理解しているし、黒い空間に本当に自分が存在するかも分からない。
声はやがて、収束していく。
一つ一つの声が聞こえなくなっていく。
これらの声は自分を否定するけれど、春人はおかしなことにこの声をずっと聞いていたいと思う。
やがて声は全て聞こえなくなり、空間にはなにもなくなった。
春人はこれまで言いたい事をようやく出せると感じる声で聞く。
「………どうして俺が嘘つきなんだ?」
数多くの声の中で、春人が気になる事はこれだった。
春人はこの声の持ち主を知っている。
自分が大切にし、愛し、守ると誓った女の子。
彼女には嘘をついた事はないはずだと。
たとえしていても彼女にはすべてばれてしまった。
彼女が嘘つきというのだから自分は嘘つきなのだろう。
そして、春人の問いに答えが来る。
「だって、」
春人は、嘘つきという事に心当たりはなかった。
しかし、正確には覚えていないが正しい。
春人は覚えていないし、受け入れる事が出来ない。
やがて、黒い空間がはれていく。
赤く紅い燃え盛る世界に。
そこは見覚えのある世界だった。
そしてそこは地獄だった。
全てが燃やされるその地獄。
人が生きたまま燃やされ、死んだ者も骨まで消し去る。
灼熱の地獄が春人に全てを思い出させた。
(そうだ、俺は、)
「お兄ちゃんはわたしを守れなかったんだよ?」
春人は、妹・夕希を守ると誓った。
しかし、あの時の春人にはそれができなかった。
春人は、守れなかったという事実と自らの無力とどうしようもない現実を受け入れたのだ。
目の前に妹の夕希がいる。
最期に見た夕希そのままの姿で自分の無知の結果でもある。
春人は地獄に行っても忘れないように、刻みつけるように、目の前の夕希の顔を見つめる。
やがて夢は覚める。
最後に見た夕希の表情にはなんの感情も映し出されていなかった。
目が覚める。
春人の目に映ったのは、白い天井だった。
まぶしさに一瞬目がくらむ。
どこかマンションの一室のようで部屋から生活館ある様相をしている。
どうやらベッドに寝かされているようで白い掛け布団が春人の胸の所までかけられている。
左腕には肘のところに点滴の針が刺さっている。
窓は開いているようで、時々風が吹いて淡いピンク色のカーテンが膨れる。
体の至るところに包帯が巻かれている。
点滴を打たれている左手は掌から肩まで巻かれている。
体から感じる感触から、そこかしこに包帯やガーゼがあるようだ。
右手には、
(右手?)
右手には一切の処置はされていなかった。
無傷だった。
痕すら残っていない。
春人の記憶では右手は瓦礫の下敷きになっていたはずだ。
無傷なんてありえないし、右手があること自体がおかしい。
「気がついた?」
春人が自身の右手について考えていると、若い女性の声が消えてきた。
春人からみるとその女性は20代後半くらいの年齢で、長く輝く銀髪を肩のあたりまで伸ばし、時折窓から入る風で揺らしている。
一瞬、春人はその髪色のまぶしさに目がくらんだように思えた。
実際に女性の髪は光輝いているように見える。
女性は主婦がしているような青いエプロンをしていて、その姿がアンバランスのようにも見えるが、不思議な事に女性の雰囲気から違和感などなかった。
簡単に表現すれば美人だった。
「わたしの名前は、セラフィーナ・エアハートといいます」
セラフィーナは部屋に入ると、持っていたお盆を置いてから名乗った。
春人も名乗ろうとするが、
「……ぁ……っ…」
思ったように声が出ず、出た音は言葉をなしてはいなかった。
声を出そうとする春人にセラフィーナは、笑顔を向けて言う。
「あなたは喉も火傷していたみたいだからしばらく声は出せないわ。ケガは医者に診てもらっているから問題ないわ」
春人が眠っている間に世話になっていた事をお礼を言いたかったが、声も出ないし体を動かそうとしたが無理だったのでどうしようもなかった。
「そうね。私もあなたも聞きたい事言いたい事があるけれどあなたのケガが治ってからにしましょう。早くても声が出せるようになるまでね。今は簡単な質問をしていきたいのよ。だからこれからわたしが質問をするから、あなたはハイなら瞬きを1回、いいえならなにもしなくていいわ。まずわたしの言葉の意味は分かる?」
春人は言われた通り、瞬きを1回して返事をする。
「まず、あなたは自分が誰かわかる?」
春人は自分の名前を思い浮かべる。夕凪春人。
瞬きを1回。
「どうしてあそこにいたかは?」
春人は自分が最後にいたであろう場所を思い浮かべる。
そこは地獄でしかなかった。
思い出すと頭痛がする。
最後に見た夕希の顔が忘れることなどできない。
その後、セラフィーナの質問に答えていく春人だがどれも要領を得ないものだった。
一番疑問に思った単語は『魔法』という言葉。
「ありがとう。あまり無理させちゃ悪いから今日はここまでにするわね。あまり無理に体を動かそうとしないでね」
そう言って、セラフィーナは点滴を新しいものに交換する。
春人はその様子を見ているうちに睡魔に襲われる。
しかし、寝てしまえば、セラフィーナという女性はいなくなってしまうのではないかと思った。
最後に自分がいたあの地獄。
そこから無事抜け出せたとは信じられなかった。
今、意識を失えば、この夢は覚めてしまうのではないか。
そんな春人に点滴の交換を終えたセラフィーナは、気づく。
そして、春人の傍らに立ち、彼の黒髪を優しく撫でる。
「いいのよ。眠って。私はここにいますから」
笑顔とともにその柔らかな声は春人を癒す。
やがて、心地よい風と手の感触に誘われ、春人は安らかな眠りにおちていった。
目が覚めると、すでに夜中のようだった。
部屋は暗闇に覆われていて、窓の外からは喧騒も何も聞こえない。
やがて、目が慣れてきてぼんやりと部屋の輪郭が分かるようになってくる。
点滴の袋は春人が寝ている間に交換されたのだろう。中身は全く減っていなかった。
体の調子を確認してみるが、少し動かすと痛みが走るが前ほどではなかった。
動くのは右手の肘から先だけのようだ。
ここでセラフィーナという女性が言っていた事を思い出す。
ここはディエベルトと呼ばれる世界で、アルクエイドという国で、アルベルという街だとか。
春人は外国の国名を全て覚えているわけではなかったが、この世界がディエベルトだという事ですでに混乱していた。
それに加えて『魔法』だ。
この世界では、『魔法』という技術があると。
春人にとって『魔法』とはお話だとか漫画とか創作の世界の域を出ないし、実際にあるとは信じることはできない。
しかし、納得する事も出てくる。
春人が遭遇した爆発テロ。
それにより引き起こされた灼熱地獄は容赦なく春人の体を焼いたはずだ。
春人のいた世界の医療技術でも治せるかどうかと聞かれれば、医者は全力を尽くすとしか言わないだろう。
それだけのケガだったはずだ。
そして極めつけはこの右手だ。
春人の右手は、肘から先が瓦礫の下敷きになってつぶれていたはずだ。
なくなっているならともかく、無傷で存在する事が『魔法』のおかげなのではないか。
(……今考えてもしょうがないか)
今あった思考を頭の隅に追いやる。
自分の常識で測れるほど今の状況は簡単ではないようだ。
春人に分かる事は、自分が生き残ってしまったという事だ。
自分だけが助かってしまった。
あの事件から助かった人も少なからずいるはずだろう。
しかし、春人にはその事に気づく余裕はなかった。
自分だけが助かってしまったという事実しか感じることができない。
左手は、今は動かない。
感覚もあいまいだ。
しかし、そこには確かな感触があった。
妹の手の感触が。
柔らかでいて確かな弾力があったその手は夕希の感触。
離してしまった手。
最後に見た妹の顔が忘れられない。
燃え盛る炎の中で泣いたように春人を見つめていた妹の姿は、春人に後悔と無力と現実を突きつけていた。
「………夕希」
声は出た。
どうやら声が出せるまでに喉は治っていたようで、春人は夕希の名前を呼び続ける。
「夕希、夕希、ゆ……ぐっ」
あふれる涙を抑える事が出来ない。
夕希の名前をうまく呼ぶ事が出来ない。
左手は最後までその手を握っている事は出来なかった。
意志は最後まで貫く事は出来なかった。
最後に自分の生き方を否定してしまった。
春人には慢心と無知と甘さがあった。
一つの地獄が、夕凪春人という人間のことごとくを奪っていった。
春人自身が知る事がなかった己の無力と現実の残酷さ。
はたして春人になにが残ったのだろうか。
右手で涙を抑えようと顔の前に持ってくる。
しかし、一度決壊した心は涙を止めてはくれない。
「オレは、なんで……」
言葉は最後まで紡がれることはなかった。
言葉にしてしまえば、拾ったものを捨ててしまう事になる。
自分にあれほどの安らぎを与えてくれたセラフィーナ。
春人は彼女の手を受け入れてしまった。
許される事がないはずだった。
自分の生き方すらあきらめ、大切なものさえ守れなかった自分が許されるなどあってはならない。
涙はとめどなくあふれ、春人の心を洗い流していく。
そうしなければ春人の壊れた心は崩れた部分に埋もれたままになってしまうから。
涙は流れ続け、春人は眠るまで夕希の名前を呼び続けた。