「空《くう》の衣をまとった王』~第一部. 二人の聖人の章
『空の衣をまとった王』
ー第一部 二人の聖人の章ー
これは後に、人々から「空の衣をまとった王」と呼ばれるようになった、ある王の物語である。
◇
昔、インドのある国に、自らの正しさを強く信じる王がいた。
王には、決して忘れることができない深い悲しみがあった。
敵国へ人質として差し出した妃を、その地で失ってしまったのだ。
「愛する者を手放してはならない」
そう誓っていたにもかかわらず、その誓いを曲げたことで、王の心は切り裂かれ、砕けた。
一方で、
「奪われた命の仇を討たねばならない」
その思いを貫いたことで、王は敵国との戦で大勝利し、そして国を守った。
――信念を曲げれば、大切なものを失う。
――信念に従えば、大切なものを守ることができる。
王は二つの出来事を、激しい感情とともに心に刻みつけた。
「胸の奥に立つ灯を、二度と、周囲のざわめく風に触れさせてはならない」
王は、自らの正しさこそが、己と大切なものを守る鎧だと信じるようになった。
その鎧はやがて、頑なな心そのものとなった。
王は古い書簡や伝承には心を開く一方、人々の声には耳を貸さなくなった。
口を開くことは途絶えがちになり、その沈黙は城に広がり、家臣たちもまた口を閉ざした。
城の風潮は、国中に染み出し、人々は語り合うことを忘れ、小さな誤解が争いの火種となることも少なくなかった。
ある日、この国に二人の旅人が訪れた。
一人は、深い湖のような静けさを湛えた男。
もう一人は、清らかな微風を宿したような眼差しの若者だった。
「われらは、陰りなき澄んだ空のごとき衣を織る者にございます。
風の導くままに旅をしておりますが、その風が、この地へとわれらを運んでまいりました」
二人がそう名乗ったとき、空を飛んでいた一羽の鳥が、彼らの訪れを見届けたように天高く舞い上がり、光の中へ消えていった。
王は久しく誰の話にも耳を貸していなかった。
だが、しがらみのない旅人の言葉は、王の心に静かな風を吹き込んだ。
二人の落ち着いた物腰には、どこか懐かしい香りがあり、王の胸の奥にかすかな温もりが宿った。
「よく来た、旅の織物職人よ。わしに衣をつくってくれ。これまで誰も見たことのないような衣を」
静かな男は恭しく頭を下げた。
「承りました。正しきものを見定める王よ」
若者が続けた。
「私たちが織る衣は、澄んだ空のごとき衣。心が澄んだ者だけが見ることができます。
曇った空に遥かなる空が見えないように、不安や怒りに曇った心には、本当の衣は見えません。
その代わり、その心が生み出した影を、衣と見誤ってしまうのです」
王は眉をわずかに動かしたが、何も言わなかった。
織所に通された二人は、静かに準備を整えると、すぐに機を動かし始めた。
カタン、コトン。
カタン、コトン。
小気味よい音が、静穏な空気の中に澄んだリズムを刻んだ。
しかし、王には何も見えなかった。
(なぜだ。正しきものを見定めるはずのわしの心が、曇っているというのか?
妃を失ったあの時に悟ったはずだ。正しきものを見定める己を疑ってはならぬ)
その瞬間、胸の奥で黒い霧が膨らんだ。
霧は王の視界を覆い、そこにないはずの衣を「あるもの」として映し出した。
「これぞ、まさしく奇跡の衣といえよう。まことに美しい」
王は言った。
家臣たちもまた、それぞれの胸に生まれた影を凝視して、
「誠に、誠に……」
と口を揃えた。
数日後、衣は完成した。
二人の職人は、目には映らない袖に王の腕を通した。
「まこと澄んだ空のごとき品。我が民にも、この奇跡の衣を見せようぞ」
王は家臣と職人を連れ、町へ出た。
奇跡の衣の噂は、言葉を交わすことが少なくなった人々の間にも広がっていた。
「城で織られている、世にも美しい衣……」
期待を胸に、国中の人々が王を迎えた。
しかし、人々の目には、衣は見えなかった。
胸の奥に、不安がさざ波のように広がった。
その不安が影となり、人々の視界を揺らし始めた。
(見えないのは、わたしの心が曇っているからなのか……いや……)
やがて人々の目には、見えないはずの衣が、まるでそこにあるかのように映り始めた。
「なんと見事な……」
「まるで光をまとっているよう…」
人々は口々にそう言った。
そのとき、一人の少女が澄んだ声で叫んだ。
「王さまは裸よ。誰か衣をかけてあげて!」
少女は、奇跡の衣の噂を知らず、目の不自由な祖母の手を引き、市場に向かう途中だった。
その言葉は、たまたま出くわした裸の王の体を気遣う、ただただ純朴な声だった。
あたりは、まるで時間が止まったかのように静まり返った。
沈黙が波紋のように広がり、やがて人々は次々に口を開いた。
「……そうだ、裸だ」
「王さまは何も着ていない」
人々の胸に広がっていた影は消え去った。
王は震える声で職人に尋ねた。
「わしは最初、何も見えなかった。だが、すぐにも、お前たちの織る衣が見えるようになった。
今、わしが羽織っている衣は、はたしてあるのか、ないのか」
静かな男は、王の胸にそっと手を当てた。
淡い光が静かに広がった。
「王よ。あなたが見ていたのは衣ではありません。 それは、あなた自身の恐れが作り出した影なのです」
若者が続けた。
「ものごとを失う恐れから生じる心の影には実体がありません。しかし、それを抱える者の世界の見え方を変えてしまうのです。 今あなたが羽織っているものも、本来は存在しません。
それは心の影が映し出した幻影なのです」
二人の輪郭が淡く揺らぎ、光が衣のように彼らを包んだ。
慈悲の光が静かに広がり、そよ風が吹き抜けた。
人々は息を呑んだ。
「あれは……観自在菩薩さま」
「舎利子さま……」
王は、胸の奥で黒い霧がほどけていくのを感じた。
それは、不信、虚栄、孤独、怒り――
そして、触れられたくなかった自分自身の弱さの影だった。
王はゆっくりと息を吐いた。
裸であることの恥じはなかった。
長いあいだ身につけていた鎧を、ようやく脱ぎ捨て、
本来の自分が立ち現れるような力強さが、胸に満ちていった。
同時に、涙が……閉ざされていた泉が陽のもとに湧き出すように、静かに頬を伝って流れた。
亡くした妃の気配が、そっと王を包み、淡い温もりを残して消えていった。
「わしは、ようやく気づいた。実体なき影をつくり出していた己の弱さに。
今、わしは解き放たれたのだ」
それから王は、人々の声に耳を傾けるようになった。
家臣たちもまた、礼をわきまえながらも遠慮なく意見を述べるようになった。
澄んだ風が吹きわたる国で、人々は本音で語り合い、穏やかに暮らすようになった。
王は変わりゆく光景を見つめた。
「恐れの影が晴れたとき、世界は初めて、ありのままの姿を見せる。
わしはようやく、この光の中を、民とともに歩み始めたのだ」
王は天を仰ぎ、いつの間にか姿を消していた二人の聖者に手を合わせた。
……第二部へ続く




