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空《くう》の衣をまとった王~二人の聖人の訪れた国

作者: 野津敬
掲載日:2026/06/27


これは後に、人々に「空の衣をまとった王」と呼ばれるようになったある王の物語である。


昔、インドのある国に、自らの正しさを強く信じる王がいた。

かつて王は、敵国に人質として送った妃を亡くし、その国との戦で勝利した経験があった。

「愛する妃を手放してはならない」という信念を曲げたことで妃を亡くし、「戦わなければならない」という信念に従ったことで勝利を得たできごとだった。

・・信念を曲げれば大切なものを失い、信念に従えば守れる・・このことを激しい感情とともに学んだ王は、それ以来、自分の正しさこそが、自分と大切なものを守る鎧だと信じるようになっていた。


その信念は、いつしか頑なな心の鎧となり、王は人々の声を聞こうとしなくなり、やがて、自らも最小限の言葉しか発しないようになっていった。

この王の寡黙さは、城全体に広がり、家臣たちもまた口を閉ざすようになっていった。この風潮は城の外にも染み出し、人々は語り合うことを忘れ、小さな誤解が、争いの火種となることも少なくなかった。


その国に、ふたりの旅人が現れた。 ひとりは深い湖のような静けさを湛えた男。 もうひとりは高い智慧を宿すように澄んだ目をした若者だった。

「われらは、陰りない澄んだ空のごとき衣を織る職人でございます。あてどなく旅をすれど、何かの縁に導かれるように、この地に足を運びました」

ふたりはそう名乗り、城を訪れた。

空を飛んでいた鳥が、ふたりの訪れを見届けたかのように天高く舞い、光の中に消えていった。


王は、誰の話にも耳を貸さなくなって久しかった。二人の訪問は、しがらみのないよそ者だからこその新しさと安心感があった。そしてその落ち着いた物腰は、どこか懐かしさを感じる香りのように王の心を和ませた。

「よく来た、旅の織物職人よ。 わしに衣をつくってくれ。 これまで誰も見たことのないような衣を」

王が言うと、静かな男は恭しく頭を下げた。

「承りました。正しきものを見定める王よ」

若者が続けた。

「私たちが織る衣は、澄んだ空のごとき衣。その名の通り、心が澄んだ者だけが見ることができます。 曇った空に遥かなる空が見えないように、不安や怒りに曇った心には“本当の衣”は見えません。 代わりに、その心が生み出す影を衣と見誤ってしてしまうのです」

王はわずかに眉を動かしたが、何も言わなかった。


織所に通されたふたりは、準備を整え、すぐにも機を動かし始めた。

カタン コトン  カタン コトン

小気味よい機の音が、二人の職人の動きとともに鳴り響いた。

しかし、最初、王には何も見えなかった。

(なぜだ。正しきものを見定めるはずのわしの心が曇っているというのか?妃を失った時にわかったはずだ。正しきものを見定める己を疑ってはならぬ)

胸の奥に、黒い霧のような影がふくらんだ。影は王の視界を覆い、 そこにないはずの衣を“あるように”見せた。

「これぞ、まさしく奇跡の衣といえよう。まことに美しい」

王は言った。家臣たちも、それぞれの影に囚われ、 「誠に、誠に・・」と口をそろえた。


数日後、衣は完成した。 ふたりの職人は恭しく王の手を取り、見えない袖を通した。

「まことに美しい。我が国の民にも、この奇跡の衣を見せようぞ」

王は家臣と職人を連れ、町へ出た。


奇跡の衣の話は、言葉を交わすことが少なくなった人々の間にも、”城で織られている世にも美しい衣”と噂になっていた。それこそ国中の人々が王をむかえた。

「おや・・これは・・」

人々には王が裸に見えた。 だが同時に、胸の奥に不安がさざ波のように広がった。 形を変えて、影は人々の胸の内にも広がっていったのだ。

影は、心の曇りとなって視界を揺らし始めた。

(見えないのは、わたしの心が曇っているからなのか・・いや・・)

人々の目には、見えないはずの衣が、まるでそこにあるかのように映り始めた。

「なんて美しい衣なのだろう」 人々はそう言い合った。


そのとき、ひとりの子どもが無邪気な声で叫んだ。

「王さまは裸だよ。誰か衣をかけてあげて!」

人々は息を呑んだ。あたりは、まるで時間が止まったかのように静まり返った。

沈黙が波紋のように広がり、やがて人々は次々に口を開きはじめた。

人々の心が生み出していた影が消え去ったのだ。

「……そうだ、裸だ」

「王さまは何も着ていない」


人々の声を聞きつけた王は、震える声で、寄り添うふたりの職人に問うた。

「・・わしは、最初何も見えなかった。だが、すぐにもお前たちが織る衣が見えるようになったのだ。今、わしが羽織っている衣は、はたしてあるのか、ないのか」

静かな男は、王の胸にそっと手を当てた。

その手から、淡い光が静かに広がった。

「王よ。あなたが見ていたのは衣ではない。 それは、あなた自身の恐れが作り出した影なのです」

若者が続けた。

「ものごとを無くす恐れから生じる様々な心の現れ、それは実体のないもの。 しかし、それを抱える者の世界の見え方を変えてしまう。 今、あなたが羽織っているのは本来ないもの。心の影が映した幻影なのです」

穏やかな言葉が流れるとともに、ふたりの織物職人の輪郭が淡く揺らぎ、光が衣のように彼らを包んだ。 慈悲の光が広がり、ふっと心を澄ませるような微風が吹き抜けた。

人々は息を呑んだ。

「あれは……観自在菩薩さま」 「舎利子さま」


「ああ・・」

王は、胸の奥で、黒い霧がほどけていくのを感じた。それは不信、虚栄、孤独、怒り・・触れられたくなかった弱さの影だった。

王はゆっくりと息を吐いた。裸であることの恥ずかしさはなかった。むしろ本来の自分が立ち現れてくる力強さを感じた。王は影を手放した。

「わしはようやく気付いた、実体なき影をつくりだす己の弱さに。今、わしは解き放たれた」



それから王は、人々の声に耳を傾けるようになった。

家臣たちもまた、礼をわきまえながらも、遠慮なく意見を述べるようになった。国の空気は澄み、争いは減り、人々は本音で語り合い、穏やかに暮らすようになった。


王はその光景を見つめ、静かにつぶやいた。

「恐れの影が晴れたとき、世界は初めてそのままの姿を見せる。 わしはようやく、この光の中を、民とともに歩き始めたのだ。 ……お導きいただいたこと、心より感謝いたします」

王は天を仰ぎ、あの日、いつの間にか、姿を消していた二人の聖者に、改めて手を合わせた。




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