空《くう》の衣をまとった王~二人の聖人の訪れた国
これは後に、人々に「空の衣をまとった王」と呼ばれるようになったある王の物語である。
昔、インドのある国に、自らの正しさを強く信じる王がいた。
かつて王は、敵国に人質として送った妃を亡くし、その国との戦で勝利した経験があった。
「愛する妃を手放してはならない」という信念を曲げたことで妃を亡くし、「戦わなければならない」という信念に従ったことで勝利を得たできごとだった。
・・信念を曲げれば大切なものを失い、信念に従えば守れる・・このことを激しい感情とともに学んだ王は、それ以来、自分の正しさこそが、自分と大切なものを守る鎧だと信じるようになっていた。
その信念は、いつしか頑なな心の鎧となり、王は人々の声を聞こうとしなくなり、やがて、自らも最小限の言葉しか発しないようになっていった。
この王の寡黙さは、城全体に広がり、家臣たちもまた口を閉ざすようになっていった。この風潮は城の外にも染み出し、人々は語り合うことを忘れ、小さな誤解が、争いの火種となることも少なくなかった。
その国に、ふたりの旅人が現れた。 ひとりは深い湖のような静けさを湛えた男。 もうひとりは高い智慧を宿すように澄んだ目をした若者だった。
「われらは、陰りない澄んだ空のごとき衣を織る職人でございます。あてどなく旅をすれど、何かの縁に導かれるように、この地に足を運びました」
ふたりはそう名乗り、城を訪れた。
空を飛んでいた鳥が、ふたりの訪れを見届けたかのように天高く舞い、光の中に消えていった。
王は、誰の話にも耳を貸さなくなって久しかった。二人の訪問は、しがらみのないよそ者だからこその新しさと安心感があった。そしてその落ち着いた物腰は、どこか懐かしさを感じる香りのように王の心を和ませた。
「よく来た、旅の織物職人よ。 わしに衣をつくってくれ。 これまで誰も見たことのないような衣を」
王が言うと、静かな男は恭しく頭を下げた。
「承りました。正しきものを見定める王よ」
若者が続けた。
「私たちが織る衣は、澄んだ空のごとき衣。その名の通り、心が澄んだ者だけが見ることができます。 曇った空に遥かなる空が見えないように、不安や怒りに曇った心には“本当の衣”は見えません。 代わりに、その心が生み出す影を衣と見誤ってしてしまうのです」
王はわずかに眉を動かしたが、何も言わなかった。
織所に通されたふたりは、準備を整え、すぐにも機を動かし始めた。
カタン コトン カタン コトン
小気味よい機の音が、二人の職人の動きとともに鳴り響いた。
しかし、最初、王には何も見えなかった。
(なぜだ。正しきものを見定めるはずのわしの心が曇っているというのか?妃を失った時にわかったはずだ。正しきものを見定める己を疑ってはならぬ)
胸の奥に、黒い霧のような影がふくらんだ。影は王の視界を覆い、 そこにないはずの衣を“あるように”見せた。
「これぞ、まさしく奇跡の衣といえよう。まことに美しい」
王は言った。家臣たちも、それぞれの影に囚われ、 「誠に、誠に・・」と口をそろえた。
数日後、衣は完成した。 ふたりの職人は恭しく王の手を取り、見えない袖を通した。
「まことに美しい。我が国の民にも、この奇跡の衣を見せようぞ」
王は家臣と職人を連れ、町へ出た。
奇跡の衣の話は、言葉を交わすことが少なくなった人々の間にも、”城で織られている世にも美しい衣”と噂になっていた。それこそ国中の人々が王をむかえた。
「おや・・これは・・」
人々には王が裸に見えた。 だが同時に、胸の奥に不安がさざ波のように広がった。 形を変えて、影は人々の胸の内にも広がっていったのだ。
影は、心の曇りとなって視界を揺らし始めた。
(見えないのは、わたしの心が曇っているからなのか・・いや・・)
人々の目には、見えないはずの衣が、まるでそこにあるかのように映り始めた。
「なんて美しい衣なのだろう」 人々はそう言い合った。
そのとき、ひとりの子どもが無邪気な声で叫んだ。
「王さまは裸だよ。誰か衣をかけてあげて!」
人々は息を呑んだ。あたりは、まるで時間が止まったかのように静まり返った。
沈黙が波紋のように広がり、やがて人々は次々に口を開きはじめた。
人々の心が生み出していた影が消え去ったのだ。
「……そうだ、裸だ」
「王さまは何も着ていない」
人々の声を聞きつけた王は、震える声で、寄り添うふたりの職人に問うた。
「・・わしは、最初何も見えなかった。だが、すぐにもお前たちが織る衣が見えるようになったのだ。今、わしが羽織っている衣は、はたしてあるのか、ないのか」
静かな男は、王の胸にそっと手を当てた。
その手から、淡い光が静かに広がった。
「王よ。あなたが見ていたのは衣ではない。 それは、あなた自身の恐れが作り出した影なのです」
若者が続けた。
「ものごとを無くす恐れから生じる様々な心の現れ、それは実体のないもの。 しかし、それを抱える者の世界の見え方を変えてしまう。 今、あなたが羽織っているのは本来ないもの。心の影が映した幻影なのです」
穏やかな言葉が流れるとともに、ふたりの織物職人の輪郭が淡く揺らぎ、光が衣のように彼らを包んだ。 慈悲の光が広がり、ふっと心を澄ませるような微風が吹き抜けた。
人々は息を呑んだ。
「あれは……観自在菩薩さま」 「舎利子さま」
「ああ・・」
王は、胸の奥で、黒い霧がほどけていくのを感じた。それは不信、虚栄、孤独、怒り・・触れられたくなかった弱さの影だった。
王はゆっくりと息を吐いた。裸であることの恥ずかしさはなかった。むしろ本来の自分が立ち現れてくる力強さを感じた。王は影を手放した。
「わしはようやく気付いた、実体なき影をつくりだす己の弱さに。今、わしは解き放たれた」
それから王は、人々の声に耳を傾けるようになった。
家臣たちもまた、礼をわきまえながらも、遠慮なく意見を述べるようになった。国の空気は澄み、争いは減り、人々は本音で語り合い、穏やかに暮らすようになった。
王はその光景を見つめ、静かにつぶやいた。
「恐れの影が晴れたとき、世界は初めてそのままの姿を見せる。 わしはようやく、この光の中を、民とともに歩き始めたのだ。 ……お導きいただいたこと、心より感謝いたします」
王は天を仰ぎ、あの日、いつの間にか、姿を消していた二人の聖者に、改めて手を合わせた。
了




