↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

「空《くう》の衣をまとった王』~第一部. 二人の聖人の章

作者: 野津敬
掲載日:2026/06/27

『空《くう》の衣をまとった王』



ー第一部 二人の聖人の章ー



これは後に、人々から「空《くう》の衣をまとった王」と呼ばれるようになった、ある王の物語である。


◇ 


昔、インドのある国に、自らの正しさを強く信じる王がいた。


王には、決して忘れることができない深い悲しみがあった。


敵国へ人質として差し出した妃《きさき》を、その地で失ってしまったのだ。


「愛する者を手放してはならない」

そう誓っていたにもかかわらず、その誓いを曲げたことで、王の心は切り裂かれ、砕けた。

一方で、

「奪われた命の仇を討たねばならない」

その思いを貫いたことで、王は敵国との戦で大勝利し、そして国を守った。


――信念を曲げれば、大切なものを失う。

――信念に従えば、大切なものを守ることができる。


王は二つの出来事を、激しい感情とともに心に刻みつけた。


「胸の奥に立つ灯を、二度と、周囲のざわめく風に触れさせてはならない」


王は、自らの正しさこそが、己と大切なものを守る鎧だと信じるようになった。

その鎧はやがて、頑なな心そのものとなった。


王は古い書簡や伝承には心を開く一方、人々の声には耳を貸さなくなった。

口を開くことは途絶えがちになり、その沈黙は城に広がり、家臣たちもまた口を閉ざした。


城の風潮は、国中に染み出し、人々は語り合うことを忘れ、小さな誤解が争いの火種となることも少なくなかった。



ある日、この国に二人の旅人が訪れた。

一人は、深い湖のような静けさを湛えた男。

もう一人は、清らかな微風《そよかぜ》を宿したような眼差しの若者だった。


「われらは、陰りなき澄んだ空のごとき衣を織る者にございます。

風の導くままに旅をしておりますが、その風が、この地へとわれらを運んでまいりました」


二人がそう名乗ったとき、空を飛んでいた一羽の鳥が、彼らの訪れを見届けたように天高く舞い上がり、光の中へ消えていった。



王は久しく誰の話にも耳を貸していなかった。

だが、しがらみのない旅人の言葉は、王の心に静かな風を吹き込んだ。

二人の落ち着いた物腰には、どこか懐かしい香りがあり、王の胸の奥にかすかな温もりが宿った。


「よく来た、旅の織物職人よ。わしに衣をつくってくれ。これまで誰も見たことのないような衣を」


静かな男は恭しく頭を下げた。

「承りました。正しきものを見定める王よ」


若者が続けた。

「私たちが織る衣は、澄んだ空のごとき衣。心が澄んだ者だけが見ることができます。

曇った空に遥かなる空が見えないように、不安や怒りに曇った心には、本当の衣は見えません。

その代わり、その心が生み出した影を、衣と見誤ってしまうのです」


王は眉をわずかに動かしたが、何も言わなかった。


織所に通された二人は、静かに準備を整えると、すぐに機《はた》を動かし始めた。


カタン、コトン。

カタン、コトン。


小気味よい音が、静穏な空気の中に澄んだリズムを刻んだ。


しかし、王には何も見えなかった。


(なぜだ。正しきものを見定めるはずのわしの心が、曇っているというのか?

妃を失ったあの時に悟ったはずだ。正しきものを見定める己を疑ってはならぬ)


その瞬間、胸の奥で黒い霧が膨らんだ。

霧は王の視界を覆い、そこにないはずの衣を「あるもの」として映し出した。


「これぞ、まさしく奇跡の衣といえよう。まことに美しい」

王は言った。


家臣たちもまた、それぞれの胸に生まれた影を凝視して、

「誠に、誠に……」

と口を揃えた。



数日後、衣は完成した。

二人の職人は、目には映らない袖に王の腕を通した。


「まこと澄んだ空のごとき品。我が民にも、この奇跡の衣を見せようぞ」


王は家臣と職人を連れ、町へ出た。

奇跡の衣の噂は、言葉を交わすことが少なくなった人々の間にも広がっていた。


「城で織られている、世にも美しい衣……」

期待を胸に、国中の人々が王を迎えた。


しかし、人々の目には、衣は見えなかった。


胸の奥に、不安がさざ波のように広がった。

その不安が影となり、人々の視界を揺らし始めた。


(見えないのは、わたしの心が曇っているからなのか……いや……)


やがて人々の目には、見えないはずの衣が、まるでそこにあるかのように映り始めた。


「なんと見事な……」

「まるで光をまとっているよう…」

人々は口々にそう言った。


そのとき、一人の少女が澄んだ声で叫んだ。


「王さまは裸よ。誰か衣をかけてあげて!」


少女は、奇跡の衣の噂を知らず、目の不自由な祖母の手を引き、市場に向かう途中だった。

その言葉は、たまたま出くわした裸の王の体を気遣う、ただただ純朴な声だった。


あたりは、まるで時間が止まったかのように静まり返った。

沈黙が波紋のように広がり、やがて人々は次々に口を開いた。


「……そうだ、裸だ」

「王さまは何も着ていない」


人々の胸に広がっていた影は消え去った。



王は震える声で職人に尋ねた。

「わしは最初、何も見えなかった。だが、すぐにも、お前たちの織る衣が見えるようになった。

今、わしが羽織っている衣は、はたしてあるのか、ないのか」


静かな男は、王の胸にそっと手を当てた。

淡い光が静かに広がった。


「王よ。あなたが見ていたのは衣ではありません。 それは、あなた自身の恐れが作り出した影なのです」


若者が続けた。

「ものごとを失う恐れから生じる心の影には実体がありません。しかし、それを抱える者の世界の見え方を変えてしまうのです。 今あなたが羽織っているものも、本来は存在しません。

それは心の影が映し出した幻影なのです」


二人の輪郭が淡く揺らぎ、光が衣のように彼らを包んだ。

慈悲の光が静かに広がり、そよ風が吹き抜けた。


人々は息を呑んだ。


「あれは……観自在菩薩さま」

「舎利子さま……」



王は、胸の奥で黒い霧がほどけていくのを感じた。

それは、不信、虚栄、孤独、怒り――

そして、触れられたくなかった自分自身の弱さの影だった。


王はゆっくりと息を吐いた。

裸であることの恥じはなかった。

長いあいだ身につけていた鎧を、ようやく脱ぎ捨て、

本来の自分が立ち現れるような力強さが、胸に満ちていった。


同時に、涙が……閉ざされていた泉が陽のもとに湧き出すように、静かに頬を伝って流れた。

亡くした妃の気配が、そっと王を包み、淡い温もりを残して消えていった。


「わしは、ようやく気づいた。実体なき影をつくり出していた己の弱さに。

今、わしは解き放たれたのだ」



それから王は、人々の声に耳を傾けるようになった。

家臣たちもまた、礼をわきまえながらも遠慮なく意見を述べるようになった。


澄んだ風が吹きわたる国で、人々は本音で語り合い、穏やかに暮らすようになった。



王は変わりゆく光景を見つめた。


「恐れの影が晴れたとき、世界は初めて、ありのままの姿を見せる。

わしはようやく、この光の中を、民とともに歩み始めたのだ」


王は天を仰ぎ、いつの間にか姿を消していた二人の聖者に手を合わせた。



……第二部へ続く



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。