—母親
回復施設は、静かすぎた。
白い壁。
白い天井。
音を吸い取る床。
あおいはベッドの上で、膝を抱えて座っていた。
目を覚ましてから、どれくらい時間が経ったのか分からない。
ここでは朝も夜も区別がなく、
係員はいつも同じ声色で話しかけてくる。
「いい子にしてたら、お母さんに会えるよ」
その言葉だけが、
意味を持っていた。
あおいは、幼い。
少なくとも、そう振る舞っている。
言葉は拙く、感情はすぐ溢れる。
少しでも視界から母の気配が消えると、
泣いて、叫んで、床に座り込む。
「おかあさん……」
その声は、
かつて施設を震わせた“叫び”とは似ても似つかない。
能力は眠っている。
そう、記録には書かれていた。
⸻
部屋に、小さな虫が入り込んだことがある。
蚊のような、
血を吸う虫だった。
刺されると、痒い。
それが不思議で、あおいは笑った。
「ちっちゃいのに、つよいね」
毎日、どこからか現れては血を吸っていった。
それが、ある日を境に、来なくなった。
理由は分からない。
ただ、少しだけ、
寂しかった。
⸻
施設には、ご褒美の制度がある。
良い子にしていると、
係員が小さな箱を持ってくる。
中に入っているのは、
金色の画鋲。
あおいは、それが好きだった。
理由を聞かれても、
うまく答えられない。
彼女は画鋲を足の裏に刺す。
痛みは、ある。
でも、それ以上に――
歩くと鳴る音が、楽しかった。
足の裏いっぱいに埋め尽くされた画鋲。
「ガッチャ……ガッチャ……」
満面の笑みである。
金属が床を叩く音。
まるで、自分が何か別のものになったようで、
あおいはそれを気に入っていた。
耳にあけたピアスの穴の様に、足の裏には画鋲が刺さる穴が出来ていた。
係員は、止めない。
様子を観察し、記録するだけだ。
⸻
母は、時々、面会に来る。
滞在時間は短い。
言葉も少ない。
その日、
母は猿のぬいぐるみを置いていった。
身体は動かない。
ただ、眼だけが、動く。
あおいは、それが怖かった。
夜になると、
視線を感じる。
見られている。
ずっと。眼だけが勝手にクルクル動くのだ。
でも、母が置いていったものだ。
だから、あおいは言う。
「……かわいいね」
お母さんを傷つけない為の嘘だ。
⸻
部屋には、手鏡が一つだけある。
あおいは、よくそれを覗き込む。
自分の顔を見ると、
胸の奥が、ざわつく。
知らないはずの感覚。
知っているはずの記憶。
係員の視線が、
常にそこにあることも、
あおいは薄々わかっている。
ここでは、
見られない瞬間は存在しない。
それでも――
彼女は、無邪気に振る舞う。
それが、
一番“安全”だと知っているから。
⸻
記憶は、
戻り方を選ばない。
匂い。
音。
反射。
鏡と鏡が向かい合ったとき、
何が起きるか。
あおいは、知っていた。
だから、お願いする。
「ねえ……もうひとつ、ほしいな」
泣いて、甘えて、
良い子を演じて。
係員は、迷い、
そして、渡してしまう。
二つの鏡。
合わせた瞬間、
空気が、震えた。
だが――
何も起きない。
共振は、立ち上がらない。
猿のぬいぐるみの眼が、
わずかに動いた。
そこから放たれる、
目に見えない抑制。
あおいは、理解する。
ここは、
…檻だ。
⸻
モニターの前で、
二人の視線が交わる。
黒井と、母。
「そろそろだな」
それは終わりの言葉ではない。
次に進むための合図だった。
あおいは、まだ知らない。
自分が守られているのか、
育てられているのか、
――あるいは。
選別されているのかを。




