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あおいの盲点  作者: 末紀世(まつきよ)


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9/10

—母親

回復施設は、静かすぎた。


白い壁。

白い天井。

音を吸い取る床。


あおいはベッドの上で、膝を抱えて座っていた。

目を覚ましてから、どれくらい時間が経ったのか分からない。

ここでは朝も夜も区別がなく、

係員はいつも同じ声色で話しかけてくる。


「いい子にしてたら、お母さんに会えるよ」


その言葉だけが、

意味を持っていた。


あおいは、幼い。

少なくとも、そう振る舞っている。


言葉は拙く、感情はすぐ溢れる。

少しでも視界から母の気配が消えると、

泣いて、叫んで、床に座り込む。


「おかあさん……」


その声は、

かつて施設を震わせた“叫び”とは似ても似つかない。


能力は眠っている。

そう、記録には書かれていた。



部屋に、小さな虫が入り込んだことがある。


蚊のような、

血を吸う虫だった。


刺されると、痒い。

それが不思議で、あおいは笑った。


「ちっちゃいのに、つよいね」


毎日、どこからか現れては血を吸っていった。

それが、ある日を境に、来なくなった。


理由は分からない。

ただ、少しだけ、

寂しかった。



施設には、ご褒美の制度がある。


良い子にしていると、

係員が小さな箱を持ってくる。


中に入っているのは、

金色の画鋲。


あおいは、それが好きだった。


理由を聞かれても、

うまく答えられない。


彼女は画鋲を足の裏に刺す。

痛みは、ある。

でも、それ以上に――


歩くと鳴る音が、楽しかった。

足の裏いっぱいに埋め尽くされた画鋲。


「ガッチャ……ガッチャ……」


満面の笑みである。


金属が床を叩く音。

まるで、自分が何か別のものになったようで、

あおいはそれを気に入っていた。


耳にあけたピアスの穴の様に、足の裏には画鋲が刺さる穴が出来ていた。


係員は、止めない。

様子を観察し、記録するだけだ。



母は、時々、面会に来る。


滞在時間は短い。

言葉も少ない。


その日、

母は猿のぬいぐるみを置いていった。


身体は動かない。

ただ、眼だけが、動く。


あおいは、それが怖かった。


夜になると、

視線を感じる。


見られている。

ずっと。眼だけが勝手にクルクル動くのだ。


でも、母が置いていったものだ。

だから、あおいは言う。


「……かわいいね」


お母さんを傷つけない為の嘘だ。



部屋には、手鏡が一つだけある。


あおいは、よくそれを覗き込む。

自分の顔を見ると、

胸の奥が、ざわつく。


知らないはずの感覚。

知っているはずの記憶。


係員の視線が、

常にそこにあることも、

あおいは薄々わかっている。


ここでは、

見られない瞬間は存在しない。


それでも――

彼女は、無邪気に振る舞う。


それが、

一番“安全”だと知っているから。



記憶は、

戻り方を選ばない。


匂い。

音。

反射。


鏡と鏡が向かい合ったとき、

何が起きるか。


あおいは、知っていた。


だから、お願いする。


「ねえ……もうひとつ、ほしいな」


泣いて、甘えて、

良い子を演じて。


係員は、迷い、

そして、渡してしまう。


二つの鏡。


合わせた瞬間、

空気が、震えた。


だが――

何も起きない。


共振は、立ち上がらない。


猿のぬいぐるみの眼が、

わずかに動いた。


そこから放たれる、

目に見えない抑制。


あおいは、理解する。


ここは、

…檻だ。



モニターの前で、

二人の視線が交わる。


黒井と、母。


「そろそろだな」


それは終わりの言葉ではない。

次に進むための合図だった。


あおいは、まだ知らない。


自分が守られているのか、

育てられているのか、

――あるいは。


選別されているのかを。

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