第3章 :心を開く瞬間
ある夜、リビングで二人並んで座っているときのことだった。
私は、言葉にならない思いを胸に抱えていた。
胸の奥が痛くて、息が詰まる。
でも、どうしても声に出せず、ただ俯いているだけだった。
夫はテレビも見ず、スマホも触らず、静かに隣に座っていた。
ただそこにいるだけ。
その静けさは、以前なら息苦しく感じたかもしれない。
でも今は、重くもなく、圧もなく、心地よかった。
「……ねぇ」
つい、かすれた声が出た。
声に驚いた自分もいた。
「うん?」
夫はそっと体をこちらに向ける。
無理に表情を変えることもなく、ただ目を見ているだけだった。
「……私、最近、本当に……しんどくて」
言葉を切り出すのに、何度も喉が詰まった。
涙が溢れて、手が震える。
そのたびに「やっぱりやめよう」と思いかけるけれど、夫の穏やかな視線が、私を止めなかった。
「話してもいいんだよ」
それだけ。
でも、その一言が、私にとっては、救いだった。
小さな声で、少しずつ、胸の内を吐き出す。
「生きてる意味が分からなくなることがある」
「何もできなくて、毎日が重い」
「誰かに迷惑をかけている気がして、息が詰まる」
泣きながら言葉を紡ぐ私を、夫はただ聞いていた。
うなずくことも、言葉を挟むこともない。
ただ、聞いている。
その事実だけで、心の奥の緊張が少しだけ解けていく。
「そうか……つらかったね」
初めて出た言葉は、短く、飾り気もないものだった。
でも、私の心には深く響いた。
「うん……ありがとう」
ぎこちなく答える私。
恥ずかしくて、申し訳なくて、でも言わずにはいられなかった。
その夜、私は初めて、弱さを見せることが怖くなくなった気がした。
完全に安心したわけではない。
でも、「ひとりではない」という感覚が、少しだけ形になった瞬間だった。
手を握るわけでも、強く抱きしめるわけでもない。
小さな存在の確かさ。
それだけで、私の心は、ぎりぎりのところで立っていられた。




