第3章 :日常の小さなやり取り
夫の支えは、特別な言葉や劇的な行動ではなかった。
むしろ、あまりにもささやかで、日常に溶け込んだものだった。
朝、私が起き上がれないままでいると、夫は何も言わずにカーテンを少しだけ開ける。
眩しすぎないように、でも部屋が完全な暗闇にならないように。
その加減が、私の状態をよく分かっている人の手つきだった。
「あとで飲めたらでいいよ」
そう言って、枕元に水を置いていく。
飲めるかどうかは、問題じゃない。
「今はできなくてもいい」という前提が、心を少し楽にしてくれる。
食事も同じだった。
無理に食べさせようとしない。
「これならどう?」と選択肢を出してくれるだけ。
私が首を横に振れば、それ以上は何も言わない。
その沈黙が、ありがたかった。
会話も、必要最低限だった。
元気づける言葉も、前向きな励ましもない。
でも、どうでもいい話はしてくれる。
テレビで見たくだらないニュース。
スーパーで安売りしていたものの話。
天気のこと。
内容に意味はない。
ただ、世界と完全に切り離されていないことを、そっと思い出させてくれる。
私は、ちゃんと反応できない日が多かった。
相槌も遅く、返事も短い。
時には、無言のまま終わることもある。
それでも夫は、話すのをやめなかった。
「返事がない=拒絶」だと思わない人が、そこにいた。
それが、どれほど救いだったか。
家事をする夫の背中を見ると、胸が痛む。
申し訳なさが込み上げる。
「ごめんね」
その言葉を口にすると、夫は決まってこう言った。
「今は役割分担が変わってるだけだよ」
責めるでもなく、慰めるでもなく、事実として。
その言い方が、私を“患者”にしなかった。
私は壊れた存在ではなく、
今は少し動けないだけの人間なんだと、そう思わせてくれる。
夜になると、隣に座ってくれる。
無言で、それぞれ別のことをしている時間。
話さなくてもいい。
触れ合わなくてもいい。
同じ空間にいるだけ。
孤独は、完全には消えない。
でも、「ひとりきり」ではなくなる。
私は時々、夫の存在が重く感じることもあった。
優しさが、罪悪感に変わる瞬間。
「こんな自分を見せ続けていいのか」
「いつか愛想を尽かされるんじゃないか」
そんな不安が、頭をよぎる。
でも夫は、変わらなかった。
感情を押し付けず、期待もせず、
ただ、そこにいる。
その一貫した態度が、少しずつ、私の心を現実につなぎ止めていた。
この頃の私は、まだ回復とは程遠い。
未来を考える余裕もない。
希望という言葉も、遠い。
それでも、
「今日を一緒にやり過ごす」
その積み重ねが、確かに存在していた。




