第33話「生きるために、忘れた」
家に帰るまでの道を、
夏目孝太郎はほとんど覚えていなかった。
ただ、足だけが動いていた。
信号を渡り、角を曲がり、
気づけば家の前に立っていた。
玄関のドアを開けると、
いつもと同じ匂いがした。
夕飯の支度をする音。
テレビの音。
平日の、何も変わらない時間。
――世界は、何も起きていないみたいだった。
自分だけが、
一歩、外に置き去りにされたような感覚。
部屋に入る。
リュックを下ろす。
ベッドに腰を下ろした瞬間、
夏目は、はっきりとした違和感を覚えた。
手が、何かを探している。
無意識に、
左手が、空を握る。
――ない。
そこで初めて、
自分が何を置いてきたのかを思い出す。
グローブ。
白石の家の前に、
確かに置いてきた。
置いた瞬間の指先の震え。
革の感触。
地面に触れた音。
それなのに、
手はまだ、そこにあるはずの重さを覚えていた。
胸の奥が、
ぎゅっと締めつけられる。
――俺が、いなかった。
その言葉が、
何度も頭の中で繰り返される。
言い訳は、いくらでも浮かんだ。
驚かせたかった。
練習していただけ。
悪気なんてなかった。
でも、
どれも「理由」でしかなかった。
結果は、一つ。
白石は、もういない。
夏目は、
開いたままの手を見つめて、
しばらく動けなかった。
泣くこともできなかった。
涙が出るほど、
現実として受け止められていなかった。
その夜、
夏目はほとんど眠れなかった。
目を閉じると、
赤いランプが浮かぶ。
人だかり。
知らない大人たちの声。
「障害のある子だったらしい」
「いじめだって」
「最近、よく一緒にいた子が来なくなったって」
――来なくなった。
胸の奥が、ずきりと痛む。
体を丸めて、
布団の中で息を潜める。
考えない。
考えなければ、
痛みは少し遠のく。
翌日から、
夏目は変わった。
いや、
変わったというより、削ぎ落とされた。
放課後、
公園に行かなくなった。
校庭にも寄らない。
誰とも遊ばない。
白石の家の前を通る道も、
無意識に避けるようになった。
代わりに、
家にまっすぐ帰る。
机に向かう。
問題集を開く。
鉛筆を持つ。
数字は、静かだった。
漢字も、裏切らなかった。
答えは、
正しければ丸。
間違えればバツ。
感情はいらない。
そこには、
「間に合わなかった」とか、
「置いてきてしまった」とか、
そういう曖昧なものが入り込む余地がなかった。
夏目は、
それが心地よかった。
運動の時間。
クラスメイトが走る中で、
夏目は一拍遅れるようになった。
体が動かないわけじゃない。
でも、
どこに力を入れればいいのか、
急に分からなくなる。
ボールを投げようとすると、
指先が止まる。
投げる直前で、
なぜか、胸がざわつく。
理由は分からない。
分からないものは、
危険だった。
だから、触れない。
「夏目、運動苦手だよな」
誰かが言った。
夏目は、否定しなかった。
否定する理由が、
もう分からなかった。
その代わり、
勉強は伸びた。
教科書を読めば理解できた。
問題集を解けば、点が取れた。
先生は言った。
「夏目は、真面目だな」
親も言った。
「背も高いし、頭もいいし」
夏目は、
その言葉をそのまま受け取った。
それ以外の自分を、
思い出さないように。
身長は、さらに伸びた。
クラスの中で、
頭二つ抜ける。
廊下を歩けば、
自然と目立つ。
でも、
誰とも群れない。
休み時間は、
机に座って本を読む。
声をかけられれば返す。
でも、自分からは行かない。
それが、
一番安全だった。
「ガリ勉ノッポ」
誰かがそう呼んだ。
夏目は、
何も感じなかった。
怒るほどの感情も、
傷つくほどの余裕もなかった。
ただ、
そういう役割なんだと理解した。
それでいい。
それで、生きていける。
白石の家の前に置いてきたグローブを、
夏目は、思い出さないようにした。
思い出さないまま、
中学生になり、
高校生になった。
野球は、
過去のものになった。
楽しかったかどうかも、
分からない。
ただ、
「触れてはいけない何か」になった。
そして。
甲子園の夏。
感情が揺れ、
体が動き、
忘れていたはずの感覚が、
一気に戻りかけた。
だからこそ、
大学で壊れ始めた。
封印は、
完全じゃなかった。
夏目孝太郎は、
生きるために、
野球を忘れた。
その代償が、
今になって、
静かに、確実に、
追いついてきていた。




