第29話「思い出してはいけなかった理由」
夜だった。
夏目の部屋は、静かだった。
エアコンの送風音も、外を走る車の気配も、すべて遠い。
机の上には開いたままのノート。
文字は書かれていない。
夏目は、ベッドの端に腰を下ろしていた。
一日の終わり。
特別な出来事はなかったはずなのに、体の奥が妙に落ち着かない。
理由は分からない。
ただ、胸の奥に何かが溜まっている感覚だけがあった。
視線が、自然と机の横へ向く。
棚の一番上。
少しだけ古びた布袋。
中には自分が昔使っていたというグローブ。
「忘れてるままでも、平気なものじゃない」
その言葉が、まだ頭の中に残っている。
夏目は、立ち上がった。
ゆっくりと歩き、袋の前にしゃがむ。
一瞬だけ、手が止まる。
開けたら、何かが変わる。
そんな確信があった。
それでも手に取った。
小さめで、使い込まれている。
革は柔らかく、ところどころ色が抜けている。
手に取った瞬間、妙にしっくりきた。
(……俺のだ)
そう思った。
理由は分からないのに、断言できた。
指を入れる。
右手。
その瞬間だった。
——息が、止まる。
喉の奥が詰まり、耳の奥がきいんと鳴った。
視界が、ぐらりと揺れた。
部屋の輪郭が歪み、天井が遠ざかる。
次の瞬間。
砂の感触。
夕方の空気。
少し冷たい風。
「ねえ、孝太郎」
声がする。
その呼び方が、胸の奥を強く叩いた。
振り返ると、そこには少年がいた。
白石和弘。
名前が、勝手に浮かんだ。
背は低く、少し猫背。
笑うと、目が細くなる。
誰も気に留めないような顔。
でも、夏目は知っている。
この少年が、どれだけ野球の話を好きだったかを。
「またあのアニメの話?」
「だってさ、あの球すごくない?」
白石は、身振り手振りで説明する。
「こうやって投げたらさ、ボールが伸びるんだよ。
現実じゃ無理だけどさ」
無理。
その言葉に、当時の夏目は首を振った。
「……できると思うよ」
白石が目を丸くする。
「え?」
「たぶんだけどな」
公園。
ボロボロのフェンス。
夕暮れ。
誰にも見られないように、二人でキャッチボールをした。
夏目は、左で投げていた。
白石は、何度もミスをした。
それでも、楽しそうだった。
「ねえ、もしさ」
白石が言う。
「本当に投げられるようになったらさ
一緒に甲子園行こうよ」
甲子園。
その響きが、胸の奥に刺さる。
「世界一のピッチャーになってよ」
「……白石じゃなくて、俺がなるのか?」
「そうだよ。孝太郎が投げて、俺が捕る。
それで一緒に行くんだ」
約束。
その言葉が、次の光景を引き裂いた。
——空白。
——遮断。
——拒絶。
夏目の視界に、赤い光が走る。
救急車のランプ。
パトカー。
人だかり。
「……息子さんが」
「……学校で、って」
「……障害が、あったって」
言葉の断片が、刺さる。
白石の家。
閉じられた扉。
驚かせるはずだった。
褒められるはずだった。
なのに。
「……俺が」
喉が、震える。
「俺が、いなかったから」
違う。
「俺が、夢なんて見たから」
もっと違う。
「俺が、置いていったから」
記憶が、怒涛のように押し寄せる。
遊んでいたのに、誰かに見られるのが嫌だったこと。
白石が一人でいる時間が増えていったこと。
「ちょっと用事があるから」と言って、距離を取ったこと。
全部。
全部、思い出してしまった。
夏目は、ベッドに崩れ落ちた。
息が、できない。
胸が、締めつけられる。
グローブを抱えたまま、体を丸める。
(……忘れたかったんだ)
野球を。
左を。
公園を。
白石和弘という存在そのものを。
だから、勉強に逃げた。
だから、右で投げた。
だから、感情を捨てた。
生きるために。
「……ごめん」
誰に向けた言葉かも分からないまま、声が漏れる。
グローブの中で、指が震えている。
夏目孝太郎は、その夜、すべてを思い出した。
忘れていたのではない。
捨てていたのだ。
そして——
その重さを、ようやく引き受けてしまった。




