第28話「返されたもの」
練習に参加した翌日。
門の前に立った瞬間、
夏目は、来てしまったことを理解した。
理由はない。
考えてもいない。
ただ、昨日左で投げようとして、この家のことがふと浮かんで頭から離れなかった。
インターホンを押すまで、少し時間がかかった。
逃げるためじゃない。
戻る場所が、もう思いつかなかっただけだ。
指を伸ばす。
押す。
音が鳴る。
それだけで、胸の奥がわずかにざわついた。
ピンポン、という音が、
やけに大きく聞こえる。
少し間があって、
ドアが開いた。
「……そう。来たのね」
柔らかい声だった。
久しぶり、でもない。
驚きも、警戒もない。
ただ、分かっていたという顔。
「一人なの?」
夏目は、黙って頷いた。
「前は……誰かと一緒だったものね」
責める響きはない。
確認でもない。
ただ、事実を置いただけだった。
「入って」
促されて、靴を脱ぐ。
玄関の匂いが、
記憶の奥をかすかに撫でた。
懐かしい、とは思わない。
でも、知らないとも言えない。
居間に通される。
変わっていない。
少し古いソファ。
壁際の棚。
写真立て。
夏目は、そこを見ないようにした。
「何か、心境の変化があったの?」
母親は、お茶を淹れながら言った。
声は穏やかだ。
でも、目は夏目を見ている。
「……分からない」
正直な答えだった。
「分からないけど……来ました」
それだけ。
母親は、少しだけ笑った。
「そう。なら、いいわ」
理由を聞かない。
無理に言葉を引き出さない。
それが、この人のやり方だった。
「孝太郎くんがね」
不意に、名前が出る。
「昔、よくここに来てたのよ」
夏目の胸が、わずかにざわつく。
「毎日のように、じゃないけど」
「でも、来る時は必ず……何か大事そうに抱えて」
何を、とは言わない。
言わなくても、分かっている前提で話している。
「あの子もあなたの前では、よく笑ってたわ」
夏目は、答えない。
笑っていた記憶は、ない。
けれど、否定もできなかった。
母親は、立ち上がった。
「ちょっと、待ってて」
奥の部屋へ向かう背中を、
夏目は追わなかった。
追えなかった。
戻ってきた母親の手には、
小さな布袋があった。
中身が何か、
見なくても分かった。
「これ」
布を開く。
革の匂いが、
ふっと広がる。
古い。
使い込まれている。
でも、手入れはされていた。
「あなたのよ」
母親は、はっきり言った。
「いつも、大事にしてた物」
「私はずっと、預かってただけ」
夏目は、すぐに触れなかった。
視線だけが、グローブをなぞる。
「……俺の?」
「ええ」
即答だった。
「持ち主は、最初からあなた」
夏目の喉が、わずかに鳴る。
「でも……俺は」
言いかけて、止まる。
何を言おうとしたのか、
自分でも分からなかった。
母親は、続けなかった。
代わりに、こう言った。
「無理に、思い出さなくていい」
夏目の目が、わずかに動く。
「でもね」
一拍。
「忘れてるままでも、平気なものじゃない」
その言葉が、
静かに胸に落ちる。
夏目は、ようやくグローブに触れた。
重い。
思ったよりも、ずっと。
指を入れない。
握りもしない。
ただ、手のひらで受け取る。
それだけで、
胸の奥がざわついた。
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
母親は、微笑んだ。
「また、来なさい」
約束でも、命令でもない。
帰り道。
グローブは、
袋の中で静かだった。
音もしない。
主張もしない。
それなのに、
存在感だけが、やけに大きい。
(……なんだ、これ)
答えは出ない。
でも、確実に言えることがある。
これは、
“忘れていいもの”じゃない。
家に着く。
部屋に入り、
グローブをベッドの横に置く。
電気を消す。
横になる。
目を閉じる。
――眠れない。
暗闇の中で、
革の匂いだけが、やけに鮮明だった。
そして、
まだ名前のつかない違和感が、
胸の奥で静かに膨らみ続けていた。




