第27話「左で持つまで」
復帰初日のグラウンドは、思ったよりも静かだった。
緊張感があるわけでも、歓迎ムードでもない。
夏目が休部してる間にチームは代替わりしていた。
知らない顔も増えていた。
そしてただ、全員が「どう扱えばいいのか分からないもの」を前にしている。そんな空気だった。
夏目孝太郎は、外野の端に立っていた。
ユニフォームは新品に近い。
でも、着慣れていないわけではない。
「今日は軽めでいいからな」
監督がそう言った。
誰に向けた言葉なのかは、言わなくても分かる。
夏目は頷いた。
特別な感情は、なかった。
久しぶりの土の感触。
スパイクの裏で踏みしめる音。
それらは懐かしくも、新しくもない。
ただ、そこにあった。
伊藤玲奈は、ベンチの端からそれを見ていた。
復帰。
その言葉に含まれる期待や意味を、伊藤は意識的に削ぎ落としていた。
今日は、戻る日じゃない。
「立つ」だけの日だ。
そう思っていた。
キャッチボールが始まる。
相手は休部前に組んでいたキャッチャーではなかった。
体はしっかりしてるが、どこか幼さが顔に残る一年生。
距離は短い。
力も入っていない。
ボールが、行って、戻ってくる。
それだけの動作。
――なのに。
伊藤は、違和感に気づいた。
夏目が、ボールを持ち替えたときだった。
右手から、左へ。
迷いはなかった。
考える間もなかった。
まるで、最初からそうするつもりだったかのように。
(……左)
心臓が、一拍遅れて鳴る。
伊藤は、視線を逸らさなかった。
見間違いであってほしかったからこそ、しっかり見た。
左手でボールを持つ夏目。
自然な構え。
無理のない角度。
それは――知っている動きだった。
少し離れたところで、投手コーチが声をかけた。
「一回、マウンドで感触だけ見よう。軽くな」
軽い確認。
断ってもいい。
誰も責めない。
一年生捕手が、様子をうかがうように言う。
「……いけますか?」
夏目は、何も言わずに頷いた。
マウンドに上がる。
土を均す仕草。
プレートの感触を確かめる足。
全部、淡々としている。
伊藤の喉が、ひりつく。
(……お願い)
(何も起こらないで)
夏目は、ボールを握った。
左手。
その瞬間だった。
指が、止まった。
ほんの一瞬。
でも、確かに。
肩が、強張る。
呼吸が、乱れる。
耳の奥で、微かに音が鳴った気がした。
「……?」
捕手が首を傾げる。
夏目は、動かない。
視線が、どこにも合っていない。
グラウンドの音が、遠のく。
――風。
――土の匂い。
――夕方の光。
胸の奥で、何かが軋む。
(……あれ)
分からない。
でも、知っている。
投げようと思ってるのに。
なのに、踏み出せない。
右足が、前に出ない。
「夏目」
監督の声が飛ぶ。
呼び方が、いつもより少しだけ短い。
現実が、引き戻す。
夏目は、ボールを一度、握り直した。
そして――
ゆっくりと、左手から右手へ持ち替えた。
その瞬間、身体が楽になる。
呼吸が戻る。
足が動く。
何事もなかったかのように、軽く一球、投げる。
捕手のミットに、収まる音。
周りの空気が、一瞬だけ止まって、すぐに流れ直す。
「……今日は、ここまでだ」
監督の声は、さっきより低かった。
理由を説明しない。
誰も、聞き返さない。
「まだ早かった」で済ませられる出来事。
そういう形にして、全員が飲み込む。
夏目は、頷いた。
マウンドを降りる背中は、静かだった。
伊藤は、動けなかった。
今、確かに見た。
左で、持って。
左で、投げようとして。
そして――止まった。
(……やっぱり)
仮説が、確信に近づく。
これは技術の問題じゃない。
利き腕の問題でもない。
思い出す手前で、身体が止めた。
そんな反応に見えた。
伊藤は、拳を強く握った。
戻ってきた。
でも、同時に――戻れない場所がある。
それでも。
マウンドに立った。
左で、ボールを持った。
それだけで、入口は開いた。
(……ここからだ)
伊藤は、そう思った。
野球をする理由は、まだない。
思い出も、まだ全部じゃない。
でも。
この人は、確かに――
野球の入り口に、もう一度立った。
それでいい。
今は、それでいい。




