表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステータスALL Sの受験生が170キロで高校野球を終わらせた件  作者: 白峰レイ
第2章 大学編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

93/94

第27話「左で持つまで」

復帰初日のグラウンドは、思ったよりも静かだった。


緊張感があるわけでも、歓迎ムードでもない。

夏目が休部してる間にチームは代替わりしていた。

知らない顔も増えていた。

そしてただ、全員が「どう扱えばいいのか分からないもの」を前にしている。そんな空気だった。


夏目孝太郎は、外野の端に立っていた。

ユニフォームは新品に近い。

でも、着慣れていないわけではない。


「今日は軽めでいいからな」


監督がそう言った。

誰に向けた言葉なのかは、言わなくても分かる。


夏目は頷いた。

特別な感情は、なかった。


久しぶりの土の感触。

スパイクの裏で踏みしめる音。

それらは懐かしくも、新しくもない。


ただ、そこにあった。


伊藤玲奈は、ベンチの端からそれを見ていた。


復帰。

その言葉に含まれる期待や意味を、伊藤は意識的に削ぎ落としていた。


今日は、戻る日じゃない。

「立つ」だけの日だ。


そう思っていた。


キャッチボールが始まる。


相手は休部前に組んでいたキャッチャーではなかった。

体はしっかりしてるが、どこか幼さが顔に残る一年生。


距離は短い。

力も入っていない。


ボールが、行って、戻ってくる。

それだけの動作。


――なのに。


伊藤は、違和感に気づいた。


夏目が、ボールを持ち替えたときだった。


右手から、左へ。


迷いはなかった。

考える間もなかった。


まるで、最初からそうするつもりだったかのように。


(……左)


心臓が、一拍遅れて鳴る。


伊藤は、視線を逸らさなかった。

見間違いであってほしかったからこそ、しっかり見た。


左手でボールを持つ夏目。

自然な構え。

無理のない角度。


それは――知っている動きだった。


少し離れたところで、投手コーチが声をかけた。


「一回、マウンドで感触だけ見よう。軽くな」


軽い確認。

断ってもいい。

誰も責めない。


一年生捕手が、様子をうかがうように言う。


「……いけますか?」


夏目は、何も言わずに頷いた。


マウンドに上がる。


土を均す仕草。

プレートの感触を確かめる足。


全部、淡々としている。


伊藤の喉が、ひりつく。


(……お願い)


(何も起こらないで)


夏目は、ボールを握った。


左手。


その瞬間だった。


指が、止まった。


ほんの一瞬。

でも、確かに。


肩が、強張る。

呼吸が、乱れる。

耳の奥で、微かに音が鳴った気がした。


「……?」


捕手が首を傾げる。


夏目は、動かない。


視線が、どこにも合っていない。


グラウンドの音が、遠のく。


――風。

――土の匂い。

――夕方の光。


胸の奥で、何かが軋む。


(……あれ)


分からない。

でも、知っている。


投げようと思ってるのに。

なのに、踏み出せない。


右足が、前に出ない。


「夏目」


監督の声が飛ぶ。

呼び方が、いつもより少しだけ短い。


現実が、引き戻す。


夏目は、ボールを一度、握り直した。


そして――

ゆっくりと、左手から右手へ持ち替えた。


その瞬間、身体が楽になる。


呼吸が戻る。

足が動く。


何事もなかったかのように、軽く一球、投げる。


捕手のミットに、収まる音。


周りの空気が、一瞬だけ止まって、すぐに流れ直す。


「……今日は、ここまでだ」


監督の声は、さっきより低かった。

理由を説明しない。

誰も、聞き返さない。


「まだ早かった」で済ませられる出来事。

そういう形にして、全員が飲み込む。


夏目は、頷いた。


マウンドを降りる背中は、静かだった。


伊藤は、動けなかった。


今、確かに見た。


左で、持って。

左で、投げようとして。

そして――止まった。


(……やっぱり)


仮説が、確信に近づく。


これは技術の問題じゃない。

利き腕の問題でもない。


思い出す手前で、身体が止めた。

そんな反応に見えた。


伊藤は、拳を強く握った。


戻ってきた。

でも、同時に――戻れない場所がある。


それでも。


マウンドに立った。

左で、ボールを持った。


それだけで、入口は開いた。


(……ここからだ)


伊藤は、そう思った。


野球をする理由は、まだない。

思い出も、まだ全部じゃない。


でも。


この人は、確かに――

野球の入り口に、もう一度立った。


それでいい。


今は、それでいい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ