第25話「辿り着いた場所」
二年の夏が過ぎて、秋が近づく頃。
伊藤玲奈は、講義が終わってもすぐには帰らなかった。
あの日、駅前のビジョンの前で夏目くんが止まった。
あの一言が、頭から離れない。
「俺が、なりたかったんじゃない。誰かが、言ってた」
主語がずれている。
夢が、他人のものとして残っている。
それがただの懐かしさで起きるとは思えなかった。
伊藤は、ノートを開き、日付を一つ書く。
“九年前”。
夏目くんが小学五年生の頃。
その横に、もう一つ。
“同級生の死”。
それは、何度か夏目くんの家を訪れた際に、彼の母親がぽろっと口にした言葉だった。
「そういえば、あの頃……近所の子が亡くなってねぇ」
明るい口調で言ってしまった後、少しだけ空気が沈んだ。
母親は慌てて話題を変えたけれど、伊藤は聞き逃さなかった。
図書館の奥。
人があまり来ない端末の前で、伊藤は席に座った。
地方紙の過去記事データベース。
大学の学生が使うのは、就活か、卒論の時くらいだ。
伊藤は検索窓に、年と月を入れる。
「小学校」「事故」「死亡」。
範囲を絞りすぎないように、言葉は少しずつ変える。
ヒット数が出て、ページを送る。
目が乾く。
「……あった」
小さな記事だった。
名前。
学年。
同じ小学校。
そして、短い本文に“事故”と書いてある。
それ以上の説明はない。
事故。
便利な言葉だ。
伊藤は、ノートの余白にメモを残す。
記事の日付。
場所。
そして、名前。
胸が少し冷えた。
同時に、妙に現実味が出た。
亡くなったのは、噂でも記号でもない。
「誰か」じゃない。
名前のある、子どもだ。
伊藤はそのまま、児童心理の担当教授の研究室に向かった。
相談の仕方は選ぶ。
診断の話はしない。
今は、因果を決める段階じゃない。
「九年前に、身近な同級生が亡くなった可能性があります。
本人の記憶に断絶があって、最近“誰かの夢”みたいな言葉が出ました。
こういう場合、遺族の方から聞き取るのは……」
教授は静かに頷いた。
「焦らないこと。事実を積み上げること。本人の安全を最優先にすること。
まずは、保護者の同意を取った方がいい」
「……はい」
伊藤は返事をして、研究室を出た。
歩きながら、スマホを見下ろす。
“同意”。
“安全”。
正しい。
でも、伊藤にはもう分かっていた。
正しさだけじゃ、間に合わない。
翌日。
伊藤は、夏目家を訪ねた。
インターホンを押す手は、前より少し重い。
それでも、迷いはない。
玄関が開いて、母親が出てきた。
「あら、玲奈ちゃん。ほんと、よく来てくれるわねぇ。
孝太郎、無愛想でしょ?」
その明るさに、伊藤は一瞬だけ救われる。
こういう“息”が、今の自分には必要だと分かっている。
「お邪魔します。今日は、少しだけ確認したいことがあって」
リビングに通され、麦茶が置かれる。
母親が笑いながら言う。
「ほんと、家族みたいねぇ。
孝太郎、こんな可愛い子がそばにいるなんて、贅沢だわぁ」
伊藤は、笑って受け流した。
ふと、奥の部屋の方から、戸がわずかに閉まる音がした。
伊藤は視線だけ動かして、すぐ戻す。
今は、話を崩さない。
「前に、九年前くらいの話をされましたよね。
近所で……亡くなった子がいたって」
母親の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まる。
それでも、逃げなかった。
「……いたわ。うん。あの頃、確かに。
孝太郎と同じ学年の男の子。近所の子でね」
「お名前、覚えてますか」
母親は少し考えたあと、言った。
伊藤が見た記事の名前と一致した。
背中がぞわっとする。
当たってしまった。
でも、それは前進だ。
「亡くなった理由は……事故と聞いてますか」
母親は、言葉を選ぶように麦茶の氷を見つめた。
「学校からは、そう聞いたの。事故だって。
詳しいことは……みんな、あまり触れないようにしてた」
触れない。
触れないから、残る。
触れないから、歪む。
伊藤は、声を低くした。
「その子の家、どのあたりでした?」
母親が口にした地名は、あの公園の近くだった。
伊藤の中で、線が一本繋がる。
「……行くの?」
母親が不安そうに言う。
「勝手にはしません。無理に聞き出すこともしません。
でも、夏目くんのために、事実だけは知りたいんです」
母親はペンを持ったまま、しばらく止まった。
それから、ゆっくりと紙を引き寄せる。
簡単な地図。
角。
公園。
目印になる店。
最後に、小さく付け足す。
「ここ……だったと思う」
「はい。ありがとうございます」
伊藤は頭を下げた。
感謝は、軽く言わない。
ちゃんと深くする。
玄関を出る直前、母親が小さく付け加える。
「孝太郎ね。昔は、ほんとに元気だったのよ。
外で遊んで、笑って、走って。
……それが、あの頃から、少しずつ変わった気がするの」
伊藤は頷いた。
「その“少しずつ”を、拾いに行きます」
帰り道。
伊藤は地図を鞄にしまい、歩幅を一定にした。
怖いのは当然だ。
でも、怖がって止まる段階は終わっている。
ふと、背後に気配があった。
視線を動かさずに、ガラスに映る影だけを見る。
夏目くんだった。
少し離れて、同じ歩幅でついてきている。
伊藤は、立ち止まらない。
気づいていないふりもしない。
ただ、声だけを落とす。
「……来るなら、ちゃんとついてきて。迷子になるわ」
返事はなかった。
でも、足音が少しだけ近づいた。
夕方。
地図の目印の角を曲がると、古い住宅街に出た。
風に、どこか懐かしい匂いが混じる。
伊藤は、目的の家の前で立ち止まる。
表札は、まだ同じ名字だった。
チャイムを押す前に、一度だけ深呼吸する。
隣を見ると、夏目くんが立っていた。
表情は薄い。
けれど、目だけが妙に冴えている。
伊藤は、玄関の前で言った。
「ここから先は、戻れる。戻ってもいい。
……でも、進むなら、私が先に話す」
夏目くんは、短く頷いた。
伊藤は、指先でチャイムを押した。
――ピンポーン。
静かな音が、やけに大きく響いた。




