第23話「思い出せない願い」
大学二年生の夏はあっという間に過ぎた。
伊藤玲奈は、ほとんど毎日、夏目と一緒にいた。
講義の時間。
学食。
図書館。
帰り道。
意識してそうしているわけじゃない。
気がつけば、そうなっていた。
休部して一年。
夏目の生活は、驚くほど静かだった。
授業は出る。
課題も出す。
遅刻もしない。
問題はない。
少なくとも、表面上は。
ただ、感情の起伏がない。
楽しいとも、つらいとも言わない。
怒ることも、落ち込むこともない。
それが「回復」なのかどうか。
伊藤には、まだ判断がつかなかった。
臨床心理学科で学ぶようになってから、
伊藤は何度も夏目の過去を思い返していた。
最初はただ勉強だけをしてきたという、身体の大きな青年だった。
ランニングと筋トレ、
そして本人がよく口にしていた
「存在するはずのないステータス」という言葉。
高校3年から野球を初めたとは思えない能力。
そして、甲子園。
最後の九回。
震えながら、それでも投げ切ったあの背中。
――あの時の夏目は、確かに生きていた。
今の夏目は、違う。
壊れてはいない。
でも、戻ってもいない。
その日も、講義が終わって二人でキャンパスを出た。
駅へ向かういつもの道。
人通りの多い交差点で、
大きなビジョンが目に入る。
それは、ただの広告のはずだった。
音量は抑えめで、足を止める人も多くない。
不意に、アニメーションの映像に切り替わった。
マウンドに立つ少年。
大きく振りかぶり、腕をしならせる。
次の瞬間――
独特な軌道で、ボールが伸びていく。
――ジャイロ。
伊藤は、無意識に足を止めていた。
横を見る。
夏目も、立ち止まっていた。
視線が、完全にビジョンに固定されている。
瞬きすらしていない。
人の流れが、二人を避けるように通り過ぎていく。
「……夏目くん?」
呼びかけても、反応がない。
画面の中で、少年が叫んだ。
『世界一のピッチャーになるんだ!』
その声が、スピーカー越しに響いた瞬間だった。
「……これ」
夏目が、ぽつりと呟いた。
伊藤は、息を呑む。
「知ってる」
低い声だった。
確信だけが残ったような、迷いのない言い方。
「昔……見たことがある気がする」
伊藤は、何も言わなかった。
ここで口を挟んではいけない。
そういう直感だけは、はっきりしていた。
夏目は、画面から目を離さないまま、しばらく黙り込む。
記憶の奥を、手探りしているようだった。
「……いや」
やがて、わずかに首を振る。
「違うな」
伊藤の胸が、ざわつく。
その否定は、曖昧じゃなかった。
感覚の問題じゃない。
もっと、根本的な違和感。
「俺が、なりたかったんじゃない」
一拍。
「誰かが、言ってた」
伊藤は、その言葉の意味を噛みしめる。
主語が、ずれている。
“なりたい”と願ったのは、夏目じゃない。
それなのに、その言葉は、夏目の中に残っている。
まるで、自分の記憶のように。
「……誰か?」
伊藤は、慎重に尋ねた。
夏目は、困ったように眉を寄せる。
「分からない」
即答だった。
思い出せない、ではない。
知らない、とも違う。
そこに「何かがある」ことだけは、確かに分かっている顔だった。
ビジョンの映像が切り替わる。
予告は終わり、別の広告が流れ始めた。
夏目は、ようやく視線を落とした。
「……変だよな」
自分に言い聞かせるように。
「知ってるはずなのに、思い出せない」
「でも、覚えてる気もする」
伊藤は、その横顔を見つめながら、確信していた。
これは「忘れている」状態じゃない。
――思い出さないように、している。
もっと正確に言えば、
思い出せないように、どこかで止めている。
伊藤の背中を、冷たいものが走る。
偶然じゃない。
ジャイロ。
左利き。
運動が突然「苦手」になった時期。
全部が、一本の線で繋がりかけている。
「……行こっか」
伊藤は、あえて何も言わずに歩き出した。
今は、まだ。
問い詰める時じゃない。
答えを出させる時でもない。
ただ、この違和感だけは――
絶対に、見逃してはいけない。
歩き出した夏目の背中を見ながら、伊藤は静かに決めていた。
調べる。
時期を。
きっかけを。
そして――失われたものの正体を。
この人が、何を置いてきたのかを。
それは、野球のためじゃない。
競技復帰のためでもない。
夏目孝太郎という人間を、取り戻すために。




