第22話「隣にいる時間」
夏目が野球部を休部してから、1年が経った。
気づけば大学二年生になっていた。
時間が流れた、という説明をするには少し違う。
正確には――時間だけが、勝手に先へ進んでいた。
伊藤は、そこでようやく気づき始めていた。
(……大学で壊れたんじゃない)
(私が見ていたのは、壊れる瞬間じゃない)
(……壊れた後だ)
(しかも、それは――)
(私が出会うより、もっと前から)
胸の奥が、遅れて痛んだ。
救えると思っていた自分が、怖かった。
講義は変わらない。
キャンパスの景色も、駅までの道も、入学した頃とほとんど同じだ。
春になると桜が咲き、
秋になると落ち葉が溜まる。
それを見て、何かを思うこともない。
良くなったとも、悪くなったとも思わない。
調子が戻った、という実感もない。
ただ、問題なく生活できている。
それだけだった。
午前の講義が終わり、ノートを閉じる。
次の講義までは一時間ほど空いている。
以前なら、どこへ行くでもなく、
人の少ない場所を探して時間を潰していた。
今は違う。
「夏目くん」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
伊藤だった。
ノートを抱え、こちらを見ている。
「次、空きコマよね」
「ああ」
「学食、行く?」
断る理由はない。
一緒に歩き出す。
学食は昼時を少し外れているはずなのに、そこそこ混んでいた。
列に並び、トレーを持つ。
伊藤はいつも同じようなものを選ぶ。
栄養バランスを考えているのか、ただの好みなのかは分からない。
席に着く。
会話は多くない。
講義の話を少し。
課題の締切を確認して、
あとは黙って食べる。
それで、十分だった。
沈黙が気まずいと感じることはない。
埋める必要もない。
食べ終わると、伊藤は自然な動作でトレーを片付けに立つ。
夏目もそれに続く。
こういう動きが、いつの間にか当たり前になっていた。
午後の講義。
選択科目。
席は、隣。
最初から決めたわけじゃない。
気づいたら、そうなっていた。
講義中、伊藤はよくメモを取る。
内容だけじゃなく、思いついたことも書き込んでいるらしい。
夏目は、それを横目で見ることがある。
字は整っているが、きっちりしすぎてはいない。
癖のある書き方だ。
自分のノートと比べて、何が違うのかを考えようとして、やめる。
特に意味はない。
講義が終わる。
人が立ち上がり、教室がざわつく。
伊藤が言う。
「今日はこの後、予定ないんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、帰ろうか」
それだけだ。
キャンパスを出て、駅へ向かう道を歩く。
途中、小さな公園の前を通る。
ブランコ。
ベンチ。
鉄棒。
視界に入るが、立ち止まらない。
胸がざわつくことも、特にない。
以前は、何かを思い出しそうになる感覚があった気がする。
今は、それも薄れている。
「今日は、早めに帰る?」
伊藤が聞く。
「……ああ」
「分かった」
それ以上、何も言わない。
駅に着き、ホームで並んで電車を待つ。
人の流れ。
アナウンス。
いつも通りの光景。
電車が来る。
座席に座り、窓の外を眺める。
伊藤も、隣に座っている。
話はしない。
スマホもあまり見ない。
それでも、時間は過ぎていく。
(……変わらないな)
そう思う。
野球をしていた頃と比べて、
何かを失ったという感覚も、
何かを得たという実感もない。
ただ、野球が生活の中心から消えただけだ。
それでも――
ふと気づく。
伊藤が、いつも隣にいる。
特別なことは何もしていない。
励ますことも、無理に話しかけることもない。
ただ、いる。
それが、一年前にはなかったことだ。
改札で別れる前に、伊藤が言う。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
それだけ。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
伊藤の姿が、窓の向こうに小さくなる。
夏目は、座席にもたれた。
(……変わったことがあるとすれば)
頭に浮かぶのは、それだけだった。
何も起きていない。
でも、一人で過ごしている訳ではない。
その違いが、良いのか悪いのかは分からない。
ただ――
一年が経っても、
伊藤玲奈は、隣にいた。
それだけは、はっきりしていた。




