第17話「踏み込む場所」
インターホンを押すまでに、伊藤は二度、深呼吸をした。
来ると決めたのは自分だ。逃げる理由はない。それでも胸の奥がざわついている。
ドアが開く。
「はい……あら?」
現れたのは、柔らかい声の女性だった。
「伊藤玲奈と申します。帝京中央大学で、夏目くんと同じ野球部の――」
言い終える前に、相手の表情がぱっと明るくなる。
「まあ! 孝太郎の大学のお友達?」
「いえ、私はマネージャーで……」
「いいのよいいのよ。とりあえず入って。外、暑かったでしょう」
半ば強引に招き入れられ、伊藤は玄関を上がった。きちんと揃えられた靴、生活感はあるが整った室内。特別なものは何もない、ごく普通の家だ。その「普通さ」が、逆に胸に刺さった。
リビングに通され、お茶が出る。
「急に伺ってしまって、すみません」
「いいのよ。最近、孝太郎、家にいてもどこか上の空で。大学、忙しいんでしょうね」
伊藤は一度言葉を選び、それから真っ直ぐに切り出した。
「今日は……夏目くんのことで、お話があって来ました。野球のことです」
母親の手が湯呑みの上で止まる。だが、表情は変わらない。
「大学に入ってから、夏目くんはずっと投げ続けています。成績だけ見れば立派です。でも……最近、明らかに様子がおかしい」
声を落とし、続ける。
「試合中、声をかけても反応が遅い。水を渡しても飲まずにぼーっとしている。勝っても負けても、感情がほとんど動かない。野球の話以前に、私は“このまま続けさせていい状態じゃない”と感じました」
沈黙が落ちる。
長い間、母親は何も言わなかった。
やがて、視線を伏せたまま、ぽつりと口を開く。
「……あの子、昔から限界が分からないの」
伊藤は息を止めた。
「頑張りすぎてるのか、何も感じてないのか、区別がつかない時があるの。昔も、似たようなことがあったわ」
母親は小さく笑おうとして、失敗したみたいに口元を押さえる。
「最近もね、食事をしてても箸が止まってるの。話しかけると、少し遅れて『うん』って。……見て見ぬふりしてたのかもしれないわね」
伊藤ははっきりと頷く。
「だから私は、一度、野球から距離を置かせたいと思っています。休部、もしくは専門のカウンセリングを受けさせたい」
母親は驚かなかった。ただ静かに息を吐く。
「……そうしたいって言っても、部が許さないんじゃないかって思ってたのよね」
そして、言い直すように続けた。
「……大学に止められる筋合いは、ないわよね」
「はい。夏目くんは特待生ではありません。一般受験で入学した、一人の学生です。誰かの都合で壊される理由はありません」
その言葉に、母親は深く頷いた。
「……ありがとう。そこまで考えてくれる人がいるなんて」
声が少しだけ震える。
「本当は私が気づいてあげないといけなかったのに……母親失格ね」
その時、階段の軋む音がした。
夏目が二階から降りてくる。
「……伊藤?」
状況を察したのか、少し眉を寄せる。
「伊藤さんがね、あなたのこと心配して来てくれたのよ」
夏目は言葉を失う。
その様子を見て、母親は一瞬だけ息を整えた。
重くなりすぎる空気を、母親なりに受け止めきれないのかもしれない。
伊藤と夏目を交互に見て、にやりと笑う。
「……あら。孝太郎に、こんな可愛い彼女がいるなんて知らなかったわ」
「えっ……?」
「母さん」
夏目の声は、珍しく慌てていた。
「冗談よ、冗談」
そう言ってから、母親は真面目な目で伊藤を見る。
「でもね。こんなふうに、あの子の“中身”まで見てくれる人、初めてなの」
伊藤は何も言えなかった。
夏目は視線を逸らしている。
伊藤が玄関で靴を履いていると、母親が言った。
「今日はありがとう。また来てね。今度は、もっとゆっくり」
外に出ると、夕方の風が少し涼しかった。
伊藤は胸の奥に残った感情を確かめる。
重い。
でも、暗くはない。
(……ここからだ)
野球を止めるためじゃない。
もう一度、“投げたい理由”を取り戻すために。
伊藤はそう決めて、歩き出した。




