表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ステータスALL Sの受験生が170キロで高校野球を終わらせた件  作者: 白峰レイ
第2章 大学編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

82/103

第16話「壊れる前に」

夏目孝太郎の異変に気づいた翌日。


伊藤玲奈は、野球部のグラウンドではなく、

学内の端にある建物の前に立っていた。


学生相談室。


地味で、目立たない場所だ。

看板も小さい。


ここに来るのは、初めてだった。


伊藤は、一度だけ深く息を吸ってから、ドアをノックした。


「どうぞ」


中は静かだった。

机と椅子。

本棚。

観葉植物。


どこにでもある部屋なのに、

なぜか逃げ場がない感じがした。


応対したのは、五十代くらいの男性だった。

白衣でもスーツでもない。

ただの大学教員という雰囲気。


「どうされましたか」


伊藤は、椅子に座ると、すぐには話し始めなかった。


何から言えばいいのか、整理できていなかったからだ。


でも、迷っている時間はない。


「……野球部の選手のことで、相談です」


「ご本人ではなく?」


「はい。

 でも、私、マネージャーです」


それだけで、相手の視線が少し変わった。


伊藤は、淡々と話し始める。


試合のこと。

球数制限。

早めの降板。

勝っても負けても、表情が変わらないこと。


ベンチで、水を飲まないこと。

声をかけても反応が遅れること。

試合が終わったことに気づかない瞬間があったこと。


「集中している、という感じではありませんでした」


伊藤は、言葉を選ぶ。


「……どこか、現実から切り離されているような」


相手は、メモを取らない。

ただ、じっと聞いている。


「野球が原因だと、断定はできません」


伊藤は、そこで一度区切った。


「でも、野球から切り離しても、

 日常生活でも同じなんです」


講義中。

空き時間。

食堂。


「反応が薄い」

「感情の起伏がほとんどない」

「自分がどうしたいのか、答えられない」


話しながら、伊藤は確信していた。


これは、野球のスランプじゃない。


「……この状態で競技を続けさせていいのか、

 分からなくなりました」


相手は、少しだけ考えてから口を開いた。


「一度、面談を受けさせましょう」


即答だった。


「競技の話ではありません。

 学生としての話です」


伊藤の胸が、少しだけ軽くなる。


「本人の同意は必要ですが、

 このケースなら、強く勧める価値があります」


「お願いします」


迷いはなかった。




――――――――――――



面談当日。


伊藤は、夏目を連れてきた。


「……ここ、何だ」


夏目は、特に嫌そうでもなく、

ただ不思議そうに建物を見上げていた。


「学生相談室」


「俺が?」


「うん」


理由を説明しても、

夏目は反論しなかった。


「……分かった」


それだけだった。


部屋に入ると、

伊藤は一歩下がった。


同席はしない。

それが、決まりだった。


ドアが閉まる。


伊藤は、廊下の椅子に座る。


時計を見る。


十分。

二十分。


時間が、異様に長い。


(……大丈夫)


自分に言い聞かせる。


これは、正しいことだ。


三十分ほどして、ドアが開いた。


先に出てきたのは、夏目だった。


表情は、いつも通り。


変わらない。


「どうだった?」


「……分からない」


正直な答えだった。


少し遅れて、カウンセラーが出てくる。


「伊藤さん、少し」


二人で、別の部屋に入る。


扉が閉まる。


「結論から言います」


そう前置きしてから、静かに告げられる。


「このまま競技を続けるのは、

 望ましくありません」


伊藤は、息を止める。


「極度の感情鈍麻。

 注意力の低下。

 自己認識の希薄化」


要するに――


「壊れかけている、ということですか」


言葉は、冷静だった。


「はい」


否定はなかった。


「今すぐどうこう、という段階ではありません。

 ですが、放置すれば危険です」


「……休ませるべき、ですよね」


「競技から、一度距離を置く必要があります」


伊藤は、深く頷いた。


伊藤は、言い切った。


「医師に繋げられますか」


相手は頷く。


「保健センターに連絡します。

こちらから紹介状も書けます」


その一言で、全てが決まった。


――――――――――――


帰り道。


夏目は、隣を歩いている。


「……なあ」


「ん?」


「俺、何かおかしいのか」


伊藤は、立ち止まらなかった。


歩きながら、答える。


「うん。おかしい」


はっきり言った。


夏目は、驚かなかった。


「そうか」


それだけ。


伊藤は、そこで初めて足を止めた。


夏目も、止まる。


真正面から、見る。


「野球を辞めさせたいわけじゃない」


「うん」


「でも、今のまま続けて欲しくない」


「……分かった」


あまりにも、あっさりしていた。


それが、何よりも怖い。


「夏目くん」


伊藤の声が、少しだけ震える。


「休もう」


「……ああ」


拒否はなかった。


怒りもなかった。


それが、決定的だった。


伊藤は確信する。


今の夏目孝太郎は、

もう「頑張れる状態」じゃない。


甲子園の最後。

震えながら、それでも投げていたあの姿。


伊藤が惹かれたのは、

あの夏目だった。


今、隣にいるのは――

別の何かだ。


(……取り戻す)


伊藤は、心の中でそう誓った。


野球のためじゃない。


記録のためでもない。


一人の人間を、

壊れきる前に引き戻すために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ