第16話「壊れる前に」
夏目孝太郎の異変に気づいた翌日。
伊藤玲奈は、野球部のグラウンドではなく、
学内の端にある建物の前に立っていた。
学生相談室。
地味で、目立たない場所だ。
看板も小さい。
ここに来るのは、初めてだった。
伊藤は、一度だけ深く息を吸ってから、ドアをノックした。
「どうぞ」
中は静かだった。
机と椅子。
本棚。
観葉植物。
どこにでもある部屋なのに、
なぜか逃げ場がない感じがした。
応対したのは、五十代くらいの男性だった。
白衣でもスーツでもない。
ただの大学教員という雰囲気。
「どうされましたか」
伊藤は、椅子に座ると、すぐには話し始めなかった。
何から言えばいいのか、整理できていなかったからだ。
でも、迷っている時間はない。
「……野球部の選手のことで、相談です」
「ご本人ではなく?」
「はい。
でも、私、マネージャーです」
それだけで、相手の視線が少し変わった。
伊藤は、淡々と話し始める。
試合のこと。
球数制限。
早めの降板。
勝っても負けても、表情が変わらないこと。
ベンチで、水を飲まないこと。
声をかけても反応が遅れること。
試合が終わったことに気づかない瞬間があったこと。
「集中している、という感じではありませんでした」
伊藤は、言葉を選ぶ。
「……どこか、現実から切り離されているような」
相手は、メモを取らない。
ただ、じっと聞いている。
「野球が原因だと、断定はできません」
伊藤は、そこで一度区切った。
「でも、野球から切り離しても、
日常生活でも同じなんです」
講義中。
空き時間。
食堂。
「反応が薄い」
「感情の起伏がほとんどない」
「自分がどうしたいのか、答えられない」
話しながら、伊藤は確信していた。
これは、野球のスランプじゃない。
「……この状態で競技を続けさせていいのか、
分からなくなりました」
相手は、少しだけ考えてから口を開いた。
「一度、面談を受けさせましょう」
即答だった。
「競技の話ではありません。
学生としての話です」
伊藤の胸が、少しだけ軽くなる。
「本人の同意は必要ですが、
このケースなら、強く勧める価値があります」
「お願いします」
迷いはなかった。
――――――――――――
面談当日。
伊藤は、夏目を連れてきた。
「……ここ、何だ」
夏目は、特に嫌そうでもなく、
ただ不思議そうに建物を見上げていた。
「学生相談室」
「俺が?」
「うん」
理由を説明しても、
夏目は反論しなかった。
「……分かった」
それだけだった。
部屋に入ると、
伊藤は一歩下がった。
同席はしない。
それが、決まりだった。
ドアが閉まる。
伊藤は、廊下の椅子に座る。
時計を見る。
十分。
二十分。
時間が、異様に長い。
(……大丈夫)
自分に言い聞かせる。
これは、正しいことだ。
三十分ほどして、ドアが開いた。
先に出てきたのは、夏目だった。
表情は、いつも通り。
変わらない。
「どうだった?」
「……分からない」
正直な答えだった。
少し遅れて、カウンセラーが出てくる。
「伊藤さん、少し」
二人で、別の部屋に入る。
扉が閉まる。
「結論から言います」
そう前置きしてから、静かに告げられる。
「このまま競技を続けるのは、
望ましくありません」
伊藤は、息を止める。
「極度の感情鈍麻。
注意力の低下。
自己認識の希薄化」
要するに――
「壊れかけている、ということですか」
言葉は、冷静だった。
「はい」
否定はなかった。
「今すぐどうこう、という段階ではありません。
ですが、放置すれば危険です」
「……休ませるべき、ですよね」
「競技から、一度距離を置く必要があります」
伊藤は、深く頷いた。
伊藤は、言い切った。
「医師に繋げられますか」
相手は頷く。
「保健センターに連絡します。
こちらから紹介状も書けます」
その一言で、全てが決まった。
――――――――――――
帰り道。
夏目は、隣を歩いている。
「……なあ」
「ん?」
「俺、何かおかしいのか」
伊藤は、立ち止まらなかった。
歩きながら、答える。
「うん。おかしい」
はっきり言った。
夏目は、驚かなかった。
「そうか」
それだけ。
伊藤は、そこで初めて足を止めた。
夏目も、止まる。
真正面から、見る。
「野球を辞めさせたいわけじゃない」
「うん」
「でも、今のまま続けて欲しくない」
「……分かった」
あまりにも、あっさりしていた。
それが、何よりも怖い。
「夏目くん」
伊藤の声が、少しだけ震える。
「休もう」
「……ああ」
拒否はなかった。
怒りもなかった。
それが、決定的だった。
伊藤は確信する。
今の夏目孝太郎は、
もう「頑張れる状態」じゃない。
甲子園の最後。
震えながら、それでも投げていたあの姿。
伊藤が惹かれたのは、
あの夏目だった。
今、隣にいるのは――
別の何かだ。
(……取り戻す)
伊藤は、心の中でそう誓った。
野球のためじゃない。
記録のためでもない。
一人の人間を、
壊れきる前に引き戻すために。




