第14話「ここにいない」
佐藤くんのデビュー戦から、二ヶ月が経った。
季節は春から夏へと移り、グラウンドには容赦ない日差しが降り注いでいた。
それでも、夏目くんの置かれている状況は、ほとんど変わっていなかった。
彼が先発する試合では、もう決まったように同じ展開が繰り返される。
当てるだけ。
ファールで粘る。
ボールを見極める。
どの大学も、同じ答えに辿り着いていた。
――夏目孝太郎には、球数制限がある。
今日も、そうだった。
一回から六回まで、無失点。
被安打は少ない。
三振も、取れている。
ただ、球数だけが増えていく。
相手は振らない。
狙わない。
勝負しない。
六回を終えた時点で、球数は九十に近かった。
「ここまでだ」
監督の声は、もう確認ですらなかった。
予定通り、という言い方が一番近い。
夏目くんは、黙ってボールを返す。
悔しそうでもない。
納得している様子でもない。
ただ、淡々と。
伊藤は、ベンチに戻ってきた夏目を見て、胸がざわついた。
(……今日も、水飲んでない)
腰を下ろしてから。
一度も水筒に手を伸ばさない。
この暑さで投げたのに。
汗は出ているのに。
伊藤は、そっと水筒を差し出した。
「夏目くん、水」
反応がない。
もう一度、少し近づいて言う。
「……夏目くん?」
遅れて、ゆっくりと顔が上がる。
視線は合う。
でも、焦点が合っていない。
「……ああ」
そう言って、水筒を受け取る。
でも。
蓋を、開けない。
両手で持ったまま、ぼんやりと前を見ている。
伊藤は、言葉を失った。
「……飲まないの?」
問いかけると、夏目くんは少し考えるような顔をしてから、首を傾げた。
「……あ」
ようやく蓋を開ける。
一口だけ飲んで、また手を止める。
まるで、「飲む」という行為を思い出したみたいだった。
その間に、試合は動いていた。
二番手の投手が打たれる。
ヒット。
四球。
長打。
スコアが、静かにひっくり返る。
スタンドがざわつく。
ベンチが慌ただしくなる。
それでも――
夏目くんは、立ち上がらなかった。
伊藤は、思わず声をかけた。
「……試合、終わるよ?」
その言葉に、夏目くんは一拍遅れて反応する。
スコアボードを見る。
それから、ほんの少しだけ眉を寄せる。
「……もう?」
その一言で、伊藤の背中に冷たいものが走った。
終わったことに、気づいていなかった。
試合は、そのまま逆転負けだった。
六回無失点。
それでも、勝ち星はつかない。
誰も、表立って夏目くんを責めない。
でも、空気は変わる。
「また、か」
「結局、同じだな」
「リリーフきついよな」
そういう声が、ベンチの隅に溜まっていく。
ロッカールーム。
夏目くんは、ユニフォームを脱ぎ、椅子に座っていた。
タオルも使わない。
水にも、手を伸ばさない。
ただ、そこに座っている。
伊藤は、喉がひくりと鳴るのを感じた。
(……おかしい)
今日、負けた。
しかも、自分が降りたあとに。
普通なら――
どんな形でも、何かしらの感情が出る。
悔しさ。
苛立ち。
申し訳なさ。
でも。
「……負けたんだよな」
夏目くんのその声は、
確認に近かった。
伊藤の背中を、冷たいものが走る。
「……うん」
そう答えた自分の声が、震えていないか分からない。
「そっか」
それだけ言って、また視線が落ちる。
(違う)
これは、疲れているだけじゃない。
メンタルが弱っている、なんて段階でもない。
――ここにいない。
伊藤は、はっきりそう思った。
バスの中。
夏目くんは、窓の外を見ている。
流れる街灯を、ただ眺めている。
声をかけても、反応が遅れる。
名前を呼ばれてから、少し考えてから、返事をする。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
(……野球の話じゃない)
(これは……人として、危ない)
理由は分からない。
病名も、知識もない。
でも。
「放っておいたら、戻れなくなる」
そんな確信だけが、はっきりとあった。
伊藤は、指先が冷たくなるのを感じながら、拳を握る。
(……見てるだけじゃダメだ)
(誰かが、助けてあげなきゃ)
このまま、
静かに壊れていくのを――
見てるだけなんて、できない。
怖かった。
正直、ものすごく。
でも。
それでも。
伊藤玲奈は、目を逸らさなかった。




