第9話「球数という檻」
伊藤がベンチに座るようになって、しばらく経った。
スコアブックを膝に置く位置。
ペンを走らせる速さ。
ボールが飛んだ瞬間に、視線が自然と上がる癖。
意識しなくても、身体が動く。
それでも――
夏目くんの背中だけは、どこか掴めなかった。
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ここ最近、どこの大学も夏目くんが投げる時は同じことをしている。
振りに来ない。
打つ気がない。
その代わり、徹底して球数を投げさせてくる。
試合前のミーティングでも、はっきり言われていた。
「粘ってくるぞ。
追い込んだらボール球を振らせろ」
それは、夏目くんに向けられた言葉だった。
一回表。
先頭打者は初球を見送り、二球目をファール。
三球目も、四球目も当てるだけ。
カウントが深くなり、最後は外角のカーブで空振り三振。
スタンドが、わずかにざわつく。
伊藤はスコアブックに書き込みながら、
その違和感を無視できなかった。
(……最初から、これね)
夏目くんは、表情を変えない。
フォームは崩れず、球速は155前後。
コースは正確で、緩急を使って三振を狙う。
「いい入りだな」
ベンチの誰かが言う。
数字だけを見れば、確かに“正しい”。
二回、三回。
相手は振らない。
ファール、ボール、ファール。
三振を取っても、拍手は小さい。
代わりに増えるのは、球数だけだった。
三回を終えた時点で、球数はすでに40を超えていた。
伊藤は、ペンを持つ手に力が入るのを感じる。
(……このペース)
夏目くんは、何も言わない。
マウンドでも、ベンチでも。
高校の時なら、
ここで一段ギアを上げていたはずだ。
でも今は――上げない。
それが“求められていない”ことを、
彼自身が一番分かっているから。
四回、五回、六回
相手のやり方は変わらない。
当てて、逃げて、数を増やす。
伊藤の背後で、小さな声が聞こえた。
「……また球数か」
「6回までだな、これ」
「最初から決まってる感じだよな」
誰も、悪意を込めていない。
ただ、事実を並べているだけ。
それが一番、冷たい。
六回表。
三者凡退。
無失点。
それでも、ベンチが動いた。
「ここまでだ」
監督の声は短い。
夏目くんは、黙ってボールを捕手に渡す。
悔しそうでも、安堵している様子でもない。
マウンドを降りる背中は、
まるで最初から“決められていた役割”を
淡々と終えただけのようだった。
スコアは、0対0。
「ナイスピッチ」
「十分だろ」
「仕事したな」
称賛の言葉が並ぶ。
伊藤は、その言葉に違和感を覚える。
(……十分、って何)
リリーフが上がる。
少し緊張した顔の2年生投手。
初球。
甘く入ったストレートを、
強く引っ張られた。
ホームラン。
続く打者。
ファールで粘り、フルカウントから四球。
スタンドがざわつき始める。
さらに一打。
外野を抜けるタイムリー。
ベンチが、ざわめく。
伊藤は、スコアブックを見つめるしかなかった。
その後も失点を続け、六失点。
あっという間だった。
試合は、そのまま終わった。
0対6。
誰もが分かっている。
負けた原因は、リリーフだ。
だから――
誰も、表立って何も言わない。
ロッカールーム。
「切り替えよう」
「次、次」
形だけの言葉が飛び交う。
でも、空気は重い。
伊藤は、聞いてしまう。
「……でもさ」
「六回で降りるエースって、どうなんだろ」
「管理されすぎじゃね?」
「結局、あいつだけ特別扱いだよな」
小さな声。
聞こえないふりをしている声。
伊藤は、何も言えなかった。
夏目くんは、ベンチの端に座っている。
ユニフォームを脱ぎ、
静かに水を飲んでいる。
表情は、変わらない。
悔しそうでも、申し訳なさそうでもない。
それが、余計に距離を作る。
(……このままだと)
伊藤は、胸の奥が冷えていくのを感じた。
夏目孝太郎は、怪物ではなくなった。
だが、人にもなっていない。
勝つために管理され、
負ければ責任を背負わされ、
それでも感情を出すことを許されない。
その中で、
彼だけが、静かに取り残されている。
声をかけたい。
でも、かけられない。
今、何を言っても、
彼をさらに孤立させる気がした。
帰りのバス。
窓際に座る夏目くんの横は、空いている。
誰も、そこに座らない。
伊藤は、拳を握った。
(……見てるだけじゃ、ダメだ)
理由は、まだ言葉にできない。
でも、この違和感だけは、確かだった。
この野球は、
このまま続けてはいけない。
そう思った自分の気持ちを、
伊藤は否定できなかった。




