第8話「楽しかったから続けてる」
その日は、練習が休みだった。
理由は単純で、前日の試合で想定より多く投げていたからだ。
夏目にとっては珍しいことではない。
大学に来てから、そういう「管理」は当たり前になっていた。
午前中の講義を終え、教室を出る。
廊下は騒がしい。
友人同士で昼飯の話をする声、次の講義をサボる相談、どうでもいい雑談。
その中を、夏目は一人で歩く。
誰も隣に座らない。
誰も話しかけない。
悪意はない。
ただ、距離があるだけだ。
(……慣れたな)
そう思った自分に、少しだけ違和感を覚える。
階段を下りたところで、声をかけられた。
「夏目くん」
伊藤だった。
ジャージではなく、講義用の私服。
手にはノートと、コンビニの袋。
「この後、予定ある?」
「……いや」
「じゃあ、一緒に帰らない?」
断る理由はなかった。
二人でキャンパスを出る。
平日の午後、大学の外は思ったより静かだった。
しばらく、他愛もない話をする。
講義のこと。
レポートの締切。
伊藤がマネージャーになってから増えた雑務。
野球の話は、出ない。
出ないまま、駅とは逆の道に差しかかった。
「こっち、近道なの」
伊藤がそう言って曲がった先に、小さな公園があった。
ブランコ。
砂場。
古い鉄棒。
人はいない。
夏目は、無意識に足を止めた。
「……ここ」
声に出すつもりはなかった。
伊藤が振り返る。
「どうしたの?」
「……いや」
そう答えたが、視線は公園から離れなかった。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。
伊藤は何も言わず、隣に立った。
沈黙が続く。
先に口を開いたのは、伊藤だった。
「ね、夏目くん」
「ん?」
「……なんで、まだ野球続けてるの?」
唐突だったが、責める響きはなかった。
「昨日のピッチング」
伊藤は、公園の奥を見ながら続ける。
「抑えてた。結果も出してた。
でも……苦しそうだった」
夏目は、すぐに答えられなかった。
理由は、考えたことがなかったからだ。
勝つため。
期待されているから。
辞める理由がないから。
どれも正しそうで、どれも違う気がした。
「……高校の時は」
気づけば、そう口にしていた。
「高校の時は、楽しかった」
伊藤が、静かにこちらを見る。
「甲子園の前とか……
正直、きつかったけど」
声が、少し低くなる。
「でも、楽しかった。
投げるのが」
理由を説明しようとして、言葉が足りないことに気づく。
楽しい。
それだけだった。
「だから、続けてるんだと思う」
伊藤は、すぐに返事をしなかった。
「……じゃあ、今は?」
「……分からない」
正直な答えだった。
今の野球は、楽しくも、嫌いでもない。
ただ、続いている。
伊藤は小さく息を吐いた。
「そっか」
それ以上、踏み込まない。
でも、言葉は続いた。
「高校の時の夏目くんね」
少しだけ、懐かしそうに。
「投げる前に、必ず一回だけ深呼吸してた。
覚えてる?」
「……そうだったか」
「うん。
今は、しない」
夏目は、無意識に自分の呼吸を意識した。
確かに、しなくなっていた。
「変わったのが悪いって言いたいわけじゃない」
伊藤は前を向いたまま言う。
「ただ……
昨日の夏目くん、ちょっと遠かった」
遠い。
その言葉が、胸に残る。
公園を抜け、駅へ向かう道に出る。
人の気配が戻ってくる。
「今日は、休みでよかった」
伊藤が言った。
「野球がない日も、大事だから」
「……ああ」
別れ際。
伊藤は一度だけ立ち止まり、振り返る。
「夏目くん」
「ん?」
「昨日のピッチングが、間違ってたとは思ってない」
少し間を置いて。
「でも、苦しそうなのは……
見てて、嫌だった」
それだけ言って、改札へ向かった。
夏目は、一人でホームに立つ。
電車が来るまでの間、
さっきの公園の風景が、頭から離れなかった。
(……なんでだ)
理由は、まだ分からない。
ただ。
「楽しかったから続けてる」
その言葉が、
今の自分には、少しだけ眩しかった。




