第7話「降ろされるための投球」
その日の相手は、露骨だった。
帝京中央の先発が夏目孝太郎だと分かった瞬間から、
相手ベンチは“勝ちに行く”よりも、
“降ろしに行く”という選択をしているのが見えた。
一球目から、振らない。
二球目も、振らない。
追い込まれてからは、当てるだけのスイング。
ファール。
またファール。
粘る。
とにかく粘る。
(……そう来るか)
夏目はマウンドで、淡々とボールを受け取っていた。
苛立ちはない。
怒りもない。
ただ、分かってしまう。
これは「打てない」じゃない。
「打たない」選択をされている。
初回から球数は増えた。
三者凡退でも、二十球近く投げさせられる。
二回、三回と同じ展開が続き、
気づけばスコアブックに、無視できない数字が積み重なっていた。
——球数。
ベンチからは声が飛ぶ。
「いいよ、そのまま!」
「焦らなくていい!」
捕手も、ミットを低く構えたまま言う。
「無理するな。
カウント作れれば、十分抑えられる」
十分。
その言葉が、なぜか胸の奥に引っかかった。
抑えている。
点は取られていない。
チームは優位だ。
でも、この時間は何だ。
打者は勝負していない。
夏目とも勝負していない。
ただ、時間を使い、球数を増やし、
“エースを降ろすための作業”をしているだけだ。
(……埒が明かない)
六回。
二死。
また粘られた。
ファールが四球続き、カウントはフル。
夏目は一度だけ、深く息を吸った。
(……一球だけ)
サインは見ない。
確認もしない。
右腕に、ほんの少しだけ力を込めた。
——ズン。
白球が、空気を切り裂いた。
音が違った。
捕手のミットが、明らかに弾かれる。
167km/h。
バットは、振り遅れたまま空を切る。
三振。
スタンドが、ざわめいた。
しかし、そのざわめきが拍手に変わる前に、
マウンドへ声が飛んできた。
「夏目!」
捕手が近づく。
「今のはいらねえ!
お前にそういうの求めてない!」
ベンチからも、監督の声。
「おい!
誰が全力でいけって言った!
怪我したらどうする!」
夏目は、何も言わなかった。
言えなかった。
自分でも分かっている。
今の一球は、チームに求められてない。
でも。
(……じゃあ、俺は何をしてる)
七回。
球数は、すでに九十を超えていた。
まだ投げられる。
肩も、肘も、問題ない。
それでも、ベンチは動いた。
「交代だ」
マウンドを降りるとき、
スタンドから拍手が起きる。
「ナイスピッチング」
「さすがエース」
褒め言葉ばかりだった。
でも、夏目の胸の奥は、ひどく静かだった。
ベンチに戻る途中、
ふと、視線を感じる。
伊藤が、ベンチの端で立っていた。
声は届かない。
表情も、はっきりとは見えない。
ただ、こちらを見ている。
何も言えず、
何もできず、
ただ、見ている。
そのことだけが、分かった。
(……俺は)
席に座り、タオルを首にかける。
(勝つため?
チームのため?
怪我をしないため?)
全部、正しい。
正しいはずなのに。
(……楽しくないな)
ふと、そんな言葉が浮かんで、
夏目は自分に驚いた。
野球は、勝つものだ。
結果を出すものだ。
そう思ってきた。
なのに今、
何のために投げているのかが、分からない。
マウンドに戻りたいとも思わない。
このまま終わりたいとも思わない。
ただ、宙ぶらりんだった。
伊藤は、最後まで何も言わなかった。
その日、
彼女は“見ることしかできない”立場にいる自分を、
初めて、はっきりと自覚していた。
そして夏目は、
野球が嫌いになったわけでも、
諦めたわけでもないまま、
——理由だけを、見失っていた。




