第6話「問題は、何も起きていないこと」
大学に入って、しばらくが経った。
春のざわつきは消え、キャンパスには「いつもの日常」が流れ始めている。
講義の開始時間。昼休みの混雑。空きコマの雑談。
誰にとっても当たり前の風景の中で、夏目孝太郎だけが、少しずつ浮いていた。
講義室に入ると、隣の席は自然と空く。
誰かが避けているわけではない。
ただ、「声をかける理由がない」だけだった。
甲子園の完全試合。
世界最速。
大学野球のスーパールーキー。
名前を知っている人間は多い。
でも、話しかける距離には、いない。
夏目は、黙ってノートを開き、講義を聞き、必要なことだけを書き留める。
質問もしないし、雑談もしない。
授業が終われば、すぐに立ち上がる。
昼休みも同じだった。
学食の混雑を避け、人の少ないコンビニで軽く済ませる。
ベンチに座って食べることもない。
自習室に入って、スマホを見るか、課題を進める。
誰かと過ごす時間は、ほとんどない。
それが「不満」かと聞かれれば、違った。
高校時代から、夏目は多くを求めていなかった。
でも――大学に来てから、違和感だけは増えていた。
リーグ戦は、淡々と進んでいる。
夏目は、ローテーションを守り、毎週のようにマウンドに立つ。
球速は、155から160の間。
コントロールは正確で、無駄な力は使わない。
変化球も揃っている。
九回まで投げきる。
完封。
球数は少ない。
数字だけを見れば、文句のつけようがなかった。
スタンドには、それなりに観客が入る。
カメラを構える記者。
スカウトの姿も、毎試合のように見える。
「大人になったな」
「完成度が高い」
「プロで即戦力だ」
そんな評価が、当たり前のように並ぶ。
ベンチでも、夏目は特別だった。
肩を叩かれる。
軽く声をかけられる。
でも、輪の中心には入らない。
「無理するな」
「今のままでいい」
「少ない球数で投げられるのが強みだ」
誰もが、正しいことを言っていた。
怪我をしない投球。
消耗しないフォーム。
勝つための最短ルート。
チームにとって、夏目は「理想的なエース」だった。
だからこそ――
誰も、踏み込んでこない。
全力を求められない。
勝負を煽られない。
危険な賭けを許されない。
強打者との対戦は、避けられることもある。
点差があれば、無理をさせない。
記録が崩れそうなら、交代も視野に入る。
夏目は、指示に従う。
疑問は持たない。
反抗もしない。
それが、一番「正しい」からだ。
試合が終わり、シャワーを浴び、着替える。
ロッカールームでは、他の選手たちが談笑している。
「次のカードも、楽そうだな」
「今年いけるぞ」
夏目は、端で静かに荷物をまとめる。
声をかけられることはある。
でも、深い話はしない。
彼らにとって、夏目は「別の場所にいる人間」だった。
大学のチームメイトでありながら、
同じ景色を見ている感覚がない。
それは、悪意ではない。
むしろ、敬意に近い。
「怪物だから」
「特別だから」
そう扱われているだけだった。
夜、自室に戻る。
特にやることはない。
テレビもつけない。
スマホを置き、ベッドに腰を下ろす。
静かだ。
高三の夏は、違った。
勝つたびに、誰かが騒いでいた。
負けそうなときは、誰かが叫んでいた。
今は、何もない。
勝っても、日常は変わらない。
抑えても、心は動かない。
ふと、夏目は何もない空間に手を伸ばしそうになって、止めた。
(……必要ない)
そう思って、手を下ろす。
完成された投手。
壊れないエース。
安全な存在。
それが、今の自分だと理解している。
でも。
胸の奥に残るのは、
「これでいいのか」という感覚だけだった。
大学生活は、今日も続く。
リーグ戦も、勝ち続ける。
何も問題はない。
――それが、一番の問題だと、
夏目孝太郎だけが、まだ言葉にできずにいた。




