第5話「日本の宝」
伊藤玲奈は、ベンチの少し後ろに立っていた。
マネージャーとして正式に加わってから、まだ日が浅い。
仕事は多いが、覚えることは高校の頃と大きく変わらない。
違うのは、空気だけだった。
大学野球のベンチは、合理的で、静かだ。
感情よりも数字が先に来る。
声よりも判断が優先される。
そしてその中心に――
夏目くんがいた。
先発、夏目孝太郎。
背番号1。
試合前のミーティングで、監督は淡々と確認する。
「今日は九回まで想定している。
ただし、無理はするな」
その言葉に、誰も異を唱えない。
捕手も頷く。
「球数は九十までだ。
それ以上は必要ない」
必要ない。
その言葉が、伊藤の胸に静かに沈んだ。
試合が始まる。
夏目くんの球は、速い。
けれど、甲子園で見た“あの速度”ではない。
コースは正確。
変化球の切れも十分。
ストライクゾーンで勝負する、完成された投球。
三者凡退。
ベンチは落ち着いている。
「今の感じでいい」
「無駄がないな」
「理想的な球数だ」
褒め言葉ばかりだ。
誰も不安がらない。
誰も興奮しない。
それが“正解”だという顔をしている。
伊藤は、スコアブックに目を落としながら、ふと気づく。
――夏目くんだけ、扱いが違う。
他の投手なら、少しの失投で声が飛ぶ。
テンポが崩れれば、ベンチがざわつく。
でも、夏目くんにはない。
失点しなければいい。
球数を抑えられればいい。
派手さは要らない。
「怪我だけはさせるな」
「壊れたら大問題だ」
「この選手は“日本の宝”だ」
そんな言葉が、裏で何度も交わされている。
守られている。
徹底的に。
でも――
(……それって)
伊藤は、マウンドを見る。
淡々と投げ、淡々と抑える夏目くん。
表情は変わらない。
楽しそうでもない。
苦しそうでもない。
ただ、役割を果たしているだけ。
(誰も、夏目くんに「どうしたい?」って聞いてない)
それに気づいた瞬間、
伊藤の指先が、わずかに震えた。
五回を終えても、球数は五十台。
監督は満足そうに頷く。
「このまま行けるな」
捕手も笑う。
「今日も楽ですね」
楽。
その言葉が、ひどく冷たく聞こえた。
高校の最後。
九回のマウンドで、震えていた背中。
終わりたくない、と言った声。
あの時の夏目くんは、
誰よりも不器用で、誰よりも人間だった。
今は違う。
完璧だ。
正しい。
評価される。
――でも。
(……私は、何も出来ない)
伊藤は、気づいてしまった。
この状況は、誰のせいでもない。
監督も、捕手も、チームも、
全員が「正しい」選択をしている。
怪我を防ぎ、
価値を守り、
勝利を積み重ねる。
否定できる要素が、どこにもない。
だからこそ。
(……悔しい)
自分が、何も言えないことが。
夏目くんが、
誰よりも大切に扱われながら、
誰よりも一人でいることに。
伊藤は、ベンチからマウンドを見つめ続ける。
声をかける理由もない。
止める権利もない。
変える力もない。
ただ、分かってしまった。
――この場所で、
夏目孝太郎は“怪物”ではない。
――でも、“人”としても扱われていない。
試合は、静かに進んでいく。
九回を投げ切れる投手。
球数を抑えられる投手。
完成されたエース。
その評価の裏で、
伊藤の胸には、消えない感情が残った。
何も出来ない悔しさ。
それは、
努力でも、知識でも、
今はどうにもならないものだった。
伊藤は、スコアブックを閉じる。
そして、心の中でだけ呟く。
(……それでも)
(私は、ここにいる)
(見ている)
(夏目くんが、
このまま“誰にも触れられない存在”になるなら)
(それだけは、
見過ごしたくない)
答えは、まだない。
ただこの悔しさだけが、
伊藤玲奈を、ベンチに縛りつけていた。




