第4話「誰も、隣に立っていない」
伊藤玲奈は、大学に入ってからずっと忙しかった。
講義の内容は高校とは比べものにならないほど重く、専門用語は一度聞いただけでは頭に残らない。
レポートの締切は容赦なく重なり、履修登録を一つ間違えただけで時間割が破綻する。
「大学生って、もっと自由だと思ってたけど」
そんな甘い考えは、入学して一週間で消えた。
気づけば一日が終わっている。
気づけば、余裕というものがなくなっている。
高校のときは違った。
放課後になれば、自然とグラウンドへ足が向いた。
スコアブックを抱え、ベンチに座り、夏目くんの背中を見る。
それが当たり前の日常だった。
でも、今は違う。
野球部のグラウンドを横目に見ても、立ち止まる理由がない。
マネージャーをやろうかと、考えなかったわけじゃない。
ただ――今は無理だ、と判断した。
忙しすぎる。
中途半端な覚悟で関わる場所じゃない。
伊藤玲奈は、そういう線引きができる人間だった。
そんなある日。
たまたま講義が早く終わった。
空き時間が一時間半。
自習室に行くには中途半端で、カフェに入るほどの気力もない。
何となくスマホを開くと、大学野球リーグの速報が流れてきた。
《帝京中央大 vs ○○大
先発:夏目孝太郎》
その名前を見た瞬間、足が止まった。
(……今日、投げるのね)
理由はない。
でも、気づいたら方向を変えていた。
グラウンドのスタンドは、想像していたより人が多かった。
テレビ中継はない。
それでも、スーツ姿の大人が目立つ。カメラを構える人間もいる。
――スカウト。
伊藤はすぐに理解した。
マウンドに立つ夏目くんは、背番号1を背負っていた。
姿勢は綺麗で、無駄がない。
高校のときより、身体の使い方が洗練されている。
一球目。
速い。
正確。
そして、驚くほど静かだった。
ミットに収まる音が、乾いている。
二球目、三球目。
バットは当たらない。
三者凡退。
スタンドからは、控えめな拍手。
「安定してるな」
「さすが完成されてる」
「もうプロレベルだ」
褒め言葉しか聞こえない。
なのに。
伊藤の胸の奥に、引っかかるものがあった。
(……違う)
何が違うのか、すぐには言語化できない。
ただ、目が離れなかった。
投球は完璧だった。
球数も少ない。
コントロールは寸分の狂いもない。
それなのに、夏目くんの表情が動かない。
抑えても、淡々としている。
アウトを取っても、感情が乗らない。
(……ロボットみたい)
そう思った瞬間、伊藤は自分に驚いた。
ロボット。
それは、否定の言葉じゃない。
壊れない。
計算通りに動く。
大学野球において、理想的な存在だ。
でも。
(……それって、夏目くん?)
五回。
また三者凡退。
捕手がマウンドへ行き、声をかける。
「今の感じでいい。
無理しなくて大丈夫だ」
無理しなくて大丈夫。
その言葉が、強く残った。
高校最後の九回。
「終わりたくない」と震えながら投げていた姿が、頭をよぎる。
あれは、無理じゃなかったのか。
ベンチを見る。
監督はスコアボードを見て満足そうに頷いている。
「このままいけ。球数を抑えろ」
スカウト席から聞こえる声。
「完成度が高い」
「商品価値が上がってるな」
「故障リスクが低いのがいい」
商品価値。
伊藤の背中が、少し冷えた。
(……守られてる)
怪我をしないように。
壊れないように。
価値を下げないように。
誰もが、夏目くんを“守っている”。
でも。
(……誰も、隣に立ってない)
高校のときは、違った。
みんなが夏目くんに声をかけていて、
夏目くんは一人じゃなかった。
今は違う。
マウンドの上に立つのは、
完璧な投手・夏目孝太郎。
試合はそのまま終わった。
完封。
拍手。
夏目くんは、軽く頭を下げるだけだった。
その背中を見ながら、伊藤ははっきりと理解する。
このままだと――
夏目くんは、誰にも触れられない存在になる。
強い。
正しい。
完璧。
だからこそ、孤独だ。
スタンドを立ち、もう一度グラウンドを見る。
マウンドには、誰もいない。
伊藤はスマホを取り出した。
野球部の連絡先を開く。
少しだけ迷ってから、画面を閉じる。
そして、深く息を吐いた。
(……やっぱり)
決めた。
私は、ベンチに戻る。
知識があったからでも、理由を言葉にできたからでもない。
ただ――
甲子園の最後に見た、あの夏目くんを知っているから。
あの人は、
こんな静かな場所に閉じ込められる人じゃない。
伊藤玲奈は、
そう決意した。




