第3話「勝ったのに、何も残らない」
九条の一発で始まった試合は、
その後、驚くほど静かに進んだ。
二回表。
五番、六番、七番。
夏目孝太郎の右腕から放たれる球は、
派手さを削ぎ落とした代わりに、異様な安定感を持っていた。
150km台後半のストレート。
外角いっぱいに吸い込まれるような制球。
低めで鋭く曲がるスライダー。
どれもが、「圧倒する」というより
「完成された」球だった。
当たらない訳じゃない。
バットの先。
詰まった内野ゴロ。
三振。
三者凡退。
三回表。
八番、九番、一番。
展開は変わらない。
捕手のミットは、綺麗な音を鳴らす。
弾かれない。
危なげもない。
ベンチからは、落ち着いた声が飛ぶ。
「いいぞ」
「そのまま」
「球数もいい」
それは、安心の声だった。
――四回表。
打順が回る。
「四番、レフト。九条 昂」
スタンドが、わずかにざわめいた。
二回の一発が、まだ頭から離れていない。
九条は、無言で打席に立つ。
構えは変わらない。
目だけが、夏目を見ていた。
(……来る)
夏目は、そう思った。
だが、捕手が一度マウンドから視線を外す。
ベンチを見る。
監督は、迷いなく指を出した。
――歩かせろ。
捕手が、サインを返す。
外。
さらに外。
九条は、バットを振らない。
四球。
小さなブーイングが起こる。
だが、すぐに消えた。
九条は一塁へ歩きながら、
一度だけベンチを見た。
誰も、こちらを見ていない。
(……やっぱりな)
それだけだった。
五回、六回。
夏目は、淡々と投げ続ける。
九条の後ろを打つ打者たちを、
何事もなかったかのように抑える。
スコアは動かない。
七回表。
再び、打順が巡る。
「四番、レフト。九条 昂」
三打席目。
今度は、スタンドも静かだった。
もう、期待されていない。
捕手が、構えない。
また、ベンチを見る。
また、同じ指示。
――無理するな。
四球。
二度目の敬遠。
九条は、ゆっくりと一塁へ向かう。
歩きながら、グラウンド全体を見渡した。
誰もが、
「勝つための最善」を選んでいる。
それが、大学野球だった。
八回、九回。
夏目は最後まで、崩れなかった。
球速は落ちない。
制球も乱れない。
最後の打者を、外角低めのスライダーで打ち取る。
遊撃手が、前に出て捕る。
一塁へ送球。
アウト。
試合終了。
スコアは、3―1。
失点は、九条の一発だけ。
9回 1失点 完投。
内容は、誰が見ても非の打ち所がなかった。
ベンチが動く。
「ナイスピッチ!」
「さすがエースだな」
「これはリーグ優勝いけるぞ」
肩を叩かれ、背中を叩かれる。
夏目は、ヘルメットを脱ぎ、
小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
声は、平坦だった。
ロッカールームへ向かう途中、
一度だけ、九条と目が合った。
九条は、何も言わない。
ただ、冷えた目で、夏目を見ていた。
その視線が、
今日一番、重かった。
(……勝ったのに)
胸の奥に、何も残らない。
正しい投球。
正しい判断。
正しい結果。
それでも。
(……これで、四年間?)
九条が、先にロッカーを出ていく。
立ち止まりもせず、
振り返りもせず。
ただ一言だけ、置いていった。
「今のお前ならさ……
プロ行けばよかったわ」
その言葉は、
怒りでも、悔しさでもなかった。
ただの事実確認だった。
夏目は、何も返せなかった。
ロッカーの中で、
無意識に、何もない空間へ手を伸ばす。
そこに、かつてあった“何か”を探すように。
もちろん、何もない。
手を下ろす。
(……怪物は、必要とされなかった)
大学が欲しいのは、
壊れない投手。
計算できる投手。
完成された選手。
夏目孝太郎は、
その条件を、すべて満たしていた。
それでも。
勝ったのに、
何も残らなかった。
その感覚だけが、
胸の奥に、静かに沈んでいた。




