第1話「値踏みのマウンド」
大学リーグ戦、開幕カード。
帝京中央大学のグラウンドには、甲子園とはまるで質の違う熱が漂っていた。
歓声はある。
スタンドも埋まっている。
だが、そこにあるのは「湧き上がる熱」ではなく、「値踏みする空気」だった。
ネット裏に並ぶスーツ姿。
腕を組み、無言でマウンドを見つめる男たち。
レーダーガン、メモ帳、タブレット。
誰一人として声を上げない。
――夏目孝太郎を見るための場。
それが、この試合の正体だった。
夏目はマウンドに立ち、土を軽く踏み固める。
甲子園と比べて、土の感触が違う。
柔らかく、均一で、整えられすぎている。
背番号は1。
理由を聞く必要はなかった。
この大学に、
彼以上の投手はいない。
捕手が腰を落とす。
三年の正捕手。
経験も実績もある。
体格はいいが、甲子園で佐藤が受けていた姿を思えば、どこか頼りなく見える。
「……最初は軽くでいい」
捕手が言う。
命令ではない。
確認でもない。
前提条件としての言葉だった。
「ここは大学だ。
無理する必要はねぇ」
夏目は、何も言わずに頷く。
セットポジションに入る。
指先に、いつもの感覚はある。
力も、迷いもない。
――一球目。
腕を振り切った瞬間、
空気が裂けた。
ボールは一直線に捕手のミットへ――
だが、次の瞬間。
弾かれた。
乾いた音。
ミットが大きく跳ね、
白球がバックネットに突き刺さる。
スタンドが、遅れてざわつく。
レーダーガンが反応する。
168km/h。
数字が表示された瞬間、
ネット裏のスーツたちが、一斉に視線を落とした。
捕手が立ち上がる。
マスク越しでも分かるほど、顔が引き締まっていた。
「……悪いな」
短く、強い声。
「でも、ここまでの球速は必要ねぇ。
捕る方の負担が大きすぎる」
捕手はミットを叩き、
言葉を続ける。
「大学野球だぞ。
そんな球、必要ない」
夏目は黙って聞いていた。
「抑えられるだろ。
155も出りゃ十分だ」
一拍。
「あとな、怪我されたら困るんだよ。
お前は“商品”なんだから」
商品。
その単語が、グラウンドに落ちる。
だが、誰も拾わない。
ベンチを見ると、
監督が静かに頷いていた。
「球速を落とせ。
コントロールと変化球でいけ」
正論だった。
大学野球としては、完璧な判断。
夏目は一度だけ息を吐き、
次の球から、腕の振りを抑えた。
155。
158。
捕手のミットに、今度はきれいに収まる。
「……そう、それでいい」
三者凡退。
球数は少なく、無駄がない。
ベンチからは、満足そうな声が上がる。
「安定してるな」
「完成度が高い」
「さすが甲子園の完全試合男だ」
誰もが褒めている。
誰もが正しい。
なのに。
マウンドを降りる途中、
夏目の胸の奥には、何も残らなかった。
ふと、三塁側を見る。
――ネクストバッターズサークル。
そこに、ひとり立っている男がいた。
4番・レフト 九条 昂。
バットを肩に担ぎ、
無言で、夏目を見ている。
喜びも、怒りもない。
ただ、冷えた視線。
まるで、
「もう答えは出た」と言うように。
九条はゆっくりと視線を外し、
素振りを一度だけした。
夏目は、理由の分からない違和感を覚えながら、
ベンチへと歩いていった。
――まだ何も起きていない。
だが、
確実に何かが始まっていた。




