第54話「攻略された瞬間」
五回表
スコアは動かぬ 0ー0。
夏目は左腕だけで十奪三振。
数字は圧倒的なのに、ベンチの空気は妙に重かった。
(……抑えてるのに、なんか嫌な感じだな)
中村は胸のざわめきをごまかせなかった。
5回表が始まっただけで、球場の温度が変わる。
軽く素振りをしているだけなのに、
周りの観客が息を呑むほどの“静かさ”をまとっていた。
佐藤はマスクをつけ直しながら、
(……こいつ、最初の打席と“目”が違う)
と喉の奥を鳴らした。
初打席は観察。
二打席目は、明らかに“狙いに来ている”。
そして伊藤は、スコアブックの端に文字を残す。
(ジャイロの沈む瞬間を、待ってる……)
気づいている。
九条だけが“夏目の左の仕組み”に触れ始めていることを。
夏目はマウンドで左腕を軽く振った。
淡々とした動作なのに、
誰よりもこの打席を警戒しているのは彼自身だった。
(……こいつ、次も振ってくる)
『四番九条』
ゆっくりと歩み、打席へ入る。
その瞬間、
観客席のざわつきは消えた。
完全な静寂。
九条の目は、白球だけを見ていた。
夏目はセットに入る。
伊藤がペンを止め、佐藤は構えを一段深くする。
初球。
外角ジャイロボール。
前打席でフライにした軌道。
九条は——
振らなかった。
ほんの、紙一重のタイミングで見送った。
見逃し。
(……振らない)
夏目は目を細める。
二球目。
沈むジャイロフォーク。
落差は完璧。
九条の肩が、
“ほんの一度だけ” 揺れた。
(来る……!)
佐藤が構えた瞬間、
九条のスイングが火を噴いた。
金属音ではなかった。
何かが裂けるような音。
カァァァンッ!!
打球は一直線に伸びていく。
レフト山田が走り出す。
走る。
走る。
しかし——
止まった。
(……越えた)
白球は、
レフトスタンド最前列に吸い込まれた。
甲子園が爆発するように沸く。
九条はゆっくりと走り出した。
表情は変わらない。
ただ、淡々と。
夏目はマウンドで一度だけ首を横に振った。
(……見切られてる)
佐藤はマスクの奥で歯を食いしばる。
(マジかよ……あいつ、本当に打った……!)
中村は拳を強く握った。
(ここからだ……ここからが勝負だ……!)
九条はホームを踏み、
ダイヤモンドを回りきったところで
ほんの少しだけ、夏目の方へ視線を向けて言った。
声はほとんど聞こえない。
けれど、意味だけは届いた。
「——あと一本、打つ」
夏目は目を伏せ、
指をわずかに握り直した。
(……じゃあ、対応するだけだ)
スコアは 0ー1。
試合は、ついに“動き始めた”。




