第52話「怪物を測る怪物」
一回表。
東陵高校の攻撃。
開明のベンチに、独特の緊張が走った。
中村は一塁ミットを握りながら、
(……胃が痛ぇ……俺ほんとにここ立つのか……)
と、何度目かわからない深呼吸をしていた。
そんな彼の背中を、山田が気楽そうに叩く。
「中村先輩、顔色死んでますよ。大丈夫っすか?」
「……お前ら、よくこんな場所で普通に息できんな……」
「いや俺は無理っすよ?」
軽口を叩くだけで、中村の喉は少し楽になった。
その横では伊藤がスコアブックを整え、
落ち着いた声で短く言う。
「中村くん、大丈夫。
夏目くんの隣に立つだけで価値あるんだから」
「……それプレッシャーじゃね?」
伊藤は小さく笑った。
その笑顔が、中村の体をほんの少し軽くした。
ベンチの空気が温まったところで、
マウンドに立つ夏目は、相変わらず“温まる気配がない”。
ただ淡々と、左腕をゆっくり回しているだけ。
九条はベンチで、
腕を組んだまま視線を逸らさず、夏目をじっと見ていた。
何もしゃべらないのに、圧だけが伝わる。
あの視線だけで、スタンドがざわついていた。
(……なんだあいつ)
夏目の胸に、言葉にならないざらつきが残る。
審判の声が響いた。
「プレイボール!!」
球場の空気が一気に張り詰めた。
一回表の先頭。
バッターボックスに入った東陵の一番は、
緊張でバットが震えているのがわかる。
夏目は無表情のまま、セットポジションに入った。
一球目。
ジャイロ。
外角いっぱい。
ミットが爆ぜる音だけが、球場に響く。
見逃し。
二球目。
ジャイロフォーク。
消える。
空振り。
三球目。
ジャイロスライダー。
バッターから外に逃げながら落ちる。
バットが空を切る。
三球三振。
球場のざわめきは、恐怖と興奮の中間にあった。
中村は、まだ一球も触れていないミットを見つめた。
(……守備って……こんな暇なのおかしいよな?)
二番も。
三番も。
すべて同じ。
左腕だけで、すでに“別競技”だった。
だが。
沈黙した東陵ベンチで、
ただ一人だけ、表情を変えない男がいた。
九条。
バットを膝の上に置き、
まるで夏目の三者三振を“採点”するように見ていた。
喜びも、焦りもない。
ただ静かに、冷たく観察している。
伊藤は九条をスコアの端に小さく書き込みながら、
小声でつぶやく。
「……嫌なタイプね、ああいうの」
夏目は汗ひとつかいていない。
だが胸の奥にだけ、微かなざらつきが残る。
(……気持ち悪い視線だな)
観客は夏目の無双に沸いていたが、
伊藤は気づいていた。
――九条は、夏目の“リズム”をじっと見ていた。
――球の出どころ、握り、足の上がる角度、呼吸の間隔。
すべてを観察している目だった。
(……あれ、多分。やばい)
スコアブックに線を引きながら、
伊藤は胸の奥がじっと冷えるのを感じた。
そしてベンチ前。
中村は中村で、違う意味で冷えていた。
「……おい。俺、明日筋肉痛になるんじゃなくて、
“何もしてないのに筋肉痛になる”パターンじゃね?」
チームメイトが笑い転げる。
「お前、守備範囲ゼロじゃん。動けよ」
「飛んでこねぇんだよ!!!」
笑いがベンチにこぼれ、
ほんの少しだけ、チームの空気が軽くなる。
しかし九条はまだ、夏目を観察していた。
その視線だけが――
試合全体の温度を、じわりと変えていった。




