第47話『キャプテンは一塁に立つ』
膝の怪我から一ヶ月。
松葉杖はとっくに外れていた。
日常生活に支障はない。
階段も上れるし、走らなければ痛みも出ない。
——それでも。
グラウンドに立つと、
中村の身体は、ほんの一瞬だけ躊躇する。
走り出す前。
踏み込む前。
力を入れる、その直前。
(……まだ、あるな)
怖さが。
ほんの一瞬。
でも、確実に。
中村は、それを誰にも言わなかった。
黙ってリハビリを続けた。
黙って筋トレを増やした。
黙って、ボールを握り続けた。
焦りはあった。
不安もあった。
それでも、口に出すことはしなかった。
「夏目がいたから勝てた」
その言葉を聞くたび、
胸の奥が、少しだけ軋んだ。
事実だ。
あいつがいなきゃ、試合は成立しなかった。
あいつが、全部投げていた。
あいつが、全部背負っていた。
(……俺は、何してた)
ベンチにいた。
声を出していた。
チームをまとめていた。
キャプテンとして、
間違ったことはしていない。
それでも。
それでも、足りない。
怪物を支えるには。
隣に立つには。
足りない。
⸻
準々決勝前日、監督室。
「中村。状態はどうだ」
静かな問いだった。
責めるでも、期待するでもない。
中村は、ほんの一瞬だけ言葉に詰まる。
「……投げるのは、まだ怖いです」
嘘じゃない。
でも、本音でもない。
本音はもっと単純で、
もっと自分勝手だった。
——待っていたら、終わる。
夏目の夏が。
開明の夏が。
「無理はするな」
監督の声は、変わらない。
中村は、一度だけ深く息を吸った。
「……でも、試合には出たいです」
その言葉は、
自分でも驚くほど自然に出た。
「膝の負担のないポジションで。
ファーストで……使ってもらえませんか」
声が、少しだけ震える。
「近くで、見ていたいんです。
あいつの球を」
それだけは、
どうしても譲れなかった。
沈黙。
監督は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……ほんと、不器用だなお前は」
その一言で、
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
⸻
試合当日の朝。
ロッカールームは静かだった。
いつもより、少しだけ。
中村は、ゆっくりとユニフォームに袖を通す。
ファーストミットを手に取る。
久しぶりの感触。
革の匂い。
何度も磨いた跡だけが、手に馴染んでいた。
(……重いな)
ミットじゃない。
責任だ。
誰にも言っていない。
夏目にも、チームにも。
まだ、姿も見せていない。
だからこそ。
(……逃げねぇ)
ベンチ入口の前で、足が止まる。
外から聞こえる、
スタンドのざわめき。
甲子園の音。
その中心に、
あいつがいる。
怪物がいる。
中村は、ミットを強く握りしめた。
——怪物の横に、立ちたい。
勝ちたいとか、
目立ちたいとか、
そんな理由じゃない。
ただ、同じ場所に立ちたかった。
一緒に戦っていると、
胸を張って言える場所に。
中村秀人は、
一歩、踏み出した。
誰にも気づかれないまま。
でも、確かに。




