第37話「怪物の前で、データは沈黙する」
翌朝。
宿舎の食堂に入った瞬間、空気が変わった。
開明の選手たちに向けられた視線が、やたらと濃かった。
ざわ…ざわ…という小さな波が、どこに座ってもついてくる。
「……なんか見られてね?」
「昨日の……173のせいだろ……」
「そりゃ見るだろ……怪物だぞお前ら……」
そんな会話がテーブルを行ったり来たりする。
中村は苦笑しながら夏目の皿を覗き込んだ。
「夏目ぇ……お前、有名人になっちまったな……」
夏目は味噌汁をすする。
一口飲んで、眉をひそめた。
「……これ薄くね?」
「そこかよ!!」
中村のツッコミが食堂中に響き、数人が笑いをこらえた。
夏目の“怪物扱い”と、中身の“普通すぎる生活感”の落差が、
じわっと周囲に伝染していく。
さらにその翌日、開明高校野球部は球場へ向かうバスに乗り込んだ。
今日は二回戦。
相手は――北海ノースフィールズ高校。
“データ野球の化け物集団”。
相手校の控室から、ちらっとホワイトボードが見えた。
そこにはデカデカと、黒マジックでこう書かれている。
《夏目対策案 77項目》
思わず誰かが息を飲んだ。
「……多くね……?」
「いや、一人に77項目ってどういうことだよ……」
「相手校の顧問、絶対徹夜してるだろ……」
中村は呆然とホワイトボードを見つめた。
(77って……それ対策なのか祈りなのかどっちだよ……)
伊藤は静かに記録用紙を閉じた。
「嫌な予感しかしないわね……
データで動く相手って、一番やりづらいのよ……」
佐藤はキャッチャーミットを握りしめた。
(……でも、夏目なら……)
夏目はというと、遠くの売店を見ながら言った。
「……あそこの焼きそば、昨日売り切れてたよな」
「試合の話しろや!!!!」
中村の怒号が球場の廊下に響き渡った。
白線の上に立つと、甲子園特有の湿った風が頬に当たる。
客席のざわつきが、昨日よりさらに増えている。
「夏目の球速、世界記録更新するのかな……」
「今日も170台見たいな……」
「相手校のデータ班が泣いてたぞ……」
そんな声がどこからともなく聞こえる。
夏目はマウンドへ向かいながら、肩を軽く回した。
(……今日は指の掛かり、良さそうだな)
佐藤の背中が前で揺れている。
(……夏目、お前の“良さそう”は怖ぇんだよ……)
でも、受け止める覚悟はできている。
相手ベンチでは、データ班の生徒たちがタブレットを抱えて震えていた。
「スピードは173基準……平均回転数約2500……こんなの無理だろ……」
「回転数多いから減速はするが、バカみたいに浮き上がると……」
「……データって、万能じゃないんだな……」
誰かがそう呟く。
グラウンドの空気が、ゆっくり張りつめていく。
試合前のシートノックが終わり、アナウンスが響く。
そして夏目がマウンドに立った瞬間、
球場中がまた、静かになった。
まるで――
“これから何か、とんでもないことが起きる”
と誰もが予感しているように。
夏目が佐藤を見た。
佐藤が頷く。
中村は祈るように拳を握る。
伊藤はスコアの一行目にペン先を置く。
その瞬間――
甲子園の風が、夏目の背中を押した。




