第30話『中村秀人はあきらめない』
──夏目が知らない場所で、
ひとりの男はまだ戦っていた。
膝に巻かれた真っ白なギプスは、
まるで“敗北”を刻みつける証のようだった。
体育館裏。
メンバーが帰ったのを確認してから、中村はそっと立ち上がる。
「……っだぁぁああ……!!」
踏み出した瞬間、膝が崩れた。
地面に手をつき、荒い呼吸が漏れる。
(痛ぇ……けど……こんなところで終われるかよ……)
医者は冷静に告げた。
「数ヶ月は無理でしょう。安静が第一です」
顧問はもっと追い打ちをかける。
「いいから休め。お前がいなくても試合は――」
(“お前がいなくても”。
……なんだよそれ……)
想像する。
自分のいないベンチ。
無人のマウンド。
9人揃ったのに、試合が成立しない現実。
勝てないんじゃない。
“戦う権利すらない”。
(嫌だ。絶対嫌だ。
俺が作ったチームだ。
俺の夢だ。
俺が守らなきゃ、誰が守るんだよ……!)
痛みが引くのを待たない。
“痛みに慣れるまで続ける”。
中村秀人は、そういう男だった。
⸻
県大会1回戦。
ベンチの隅で、中村は俯いていた。
三振。
レーザービーム。
ホームラン。
(……怪物かよ)
誇らしくて、悔しくて、嬉しくて。
全部混ざって胸が痛かった。
(でもよ……俺のチームだ。
俺がいなきゃ始まらなかったチームだ。
夏目……お前を呼んだのは、俺だ……)
⸻
医者にも顧問にも止められて、それでも夜が来るたび、中村はグラウンドに向かった。
松葉杖を横に置き、片足で立ちながらシャドーピッチングを繰り返す。
「フォーム忘れねぇぞ……
俺が……エースだ……!」
腕を振るたびに膝が軋む。
涙が滲む。
でも拭かない。
(悔しい……だけど……まだ負けねぇ)
誰もいないグラウンドに、枯れるまで叫ぶ。
「夏目ぇぇ……!!
お前を頼ったのは確かに俺だ……!!
でもな……!!
全部背負わせるつもりはねぇからな……!!」
夏目の存在は脅威だった。
才能も身体能力も、世界が違う。
(……俺の居場所、なくなるんじゃねぇか)
そんな夜もあった。
でも続く言葉は毎回同じ。
(それでいい。
チームが勝つなら、俺なんかどうでもいい。
俺は……この仲間が好きなんだ)
⸻
リハビリは地獄。
曲がらない膝を無理に押す。
汗と悔しさが混ざって床に落ちる。
「無理しないでください」
理学療法士の声は優しい。
「……無理しねぇと戻れねぇんすよ」
声が震えても、笑った。
帰り道。
電柱にもたれて息を整える。
(夏目は……今も走ってんだろ……
伊藤も……部員も……前に進んでる……
俺だけ止まってられっかよ……)
少し走れた日。
少し強く踏み込めた日。
その全部が嬉しかった。
誰にも言わなかったけど。
⸻
数週間後。
リハビリ帰りの夕方、校庭の向こうで夏目が走っていた。
白い息を吐きながら、背中は大きく揺れていた。
「おい、夏目」
声をかけると夏目が振り返る。
「……お前、何してんだよ」
「走ってんだよ。……復帰に向けてな」
夏目が少しだけ驚いた顔をした。
中村は笑う。
「俺、間に合ったら……ちゃんと戻るからよ。
エースは譲らねぇ」
夏目の目がわずかに揺れた。
多くは語らない。
でも伝わる。
中村は拳を軽く上げる。
「お前が怪物なら……
俺は怪物のキャプテンだ」
夏目は無言。
しかし視線はどこか柔らかかった。
それで十分だった。
⸻
試合の日。
膝はまだ痛む。
でも声は出る。
「いけ夏目ぇぇ!!
全員続けぇぇ!!
ここからだぞぉぉ!!」
チームが乗り、夏目の球がさらに鋭くなる。
ベンチでその姿を見るたび、中村は小さく呟く。
「ありがとうな……夏目。
お前が来てくれて……
俺は本当に救われた……」
――そして中村秀人は、今日も戦っている。
たとえグラウンドに立てなくても。
仲間のために、チームのために。
彼はずっと、野球部の“心臓”だった。




