第26話 封じられていた側
県大会決勝の球場には、朝から異様な熱気が漂っていた。
太鼓、歓声、鳴り止まないざわめき。
まるで夏の甲子園の縮小コピーのようだった。
開明高校のベンチでは、夏目がいつも通り淡々とバットを握っている。
その背後には松葉杖を脇に置いた中村。怪我は治っていないが、目は決勝に向けて燃えていた。
伊藤はマネージャーノートを片手に言った。
「夏目君。今日の相手は全国常連。甘くないわよ」
夏目は軽くストレッチしながら首をかしげた。
「大丈夫だろ。どうせ投げるだけだし」
「その“どうせ”ほど信用できない言葉ないのよね……」
中村が豪快に笑った。
「でも夏目ならなんとかするだろ!」
伊藤はため息をつく。
「雑な信頼よ、それ……」
対戦相手・城南学院。
県内でも別格の強豪で、選手の体格もレベルも段違い。
監督は夏目の投球映像を何百回も見たらしいが、結論はひとつだけだった。
(……正直、対策が成立していない)
選手たちもその映像を見て寝不足になっていた。
プレイボールの声が響き、球場が揺れた。
先攻・開明高校。
夏目が打席に立つだけで観客席からどよめきが起きる。
(ほんと実在したんだ……あの化け物……)
そんなざわつきのなか、城南のエース橘は鋭い目つきで初球を投げ込んだ。
外角低め、144キロ。夏目は見送る。ボール。
二球目のスライダーはファール。
三球目の高めは、夏目にはボールに見えたがストライク判定。
そして四球目、チェンジアップに泳がされ空振り三振。
橘が握りこぶしを作る。
(よし……まず一つ……!)
続く打者も抑え、開明は三者凡退で攻撃を終えた。
攻守交代。
夏目がマウンドに立つと、空気が変わった。
「影……でか……」
「170ってほんとに投げるのか……?」
「いや肩幅おかしいって……」
佐藤はミットを構えながら祈る。
(今日も生き残れますように……)
夏目が軽く腕を振った瞬間――
バチィィィン!!
ミットが吹っ飛んだ。
城南学院の選手全員が固まる。
「投球練習でミット飛ぶ……?」
「高校生じゃないだろ……」
夏目は淡々と投げ続けた。
ど真ん中170キロで見逃し三振。
外角ストレートで空振り三振。
球が途中で“消えたように”落ちて三振。
わずか9球で3者連続三振。
球場が揺れた。
中村は泣きそうになりながら叫んだ。
「夏目ぇぇぇ!!最高だぞぉぉ!!」
2回
橘のスライダーとチェンジアップに開明打線は苦戦するが、夏目もまた“別次元”の投球で対抗した。
ストレート。フォーク。スライダー。カーブ。カットボール。シュート。
6種類すべてがプロレベル。
打者に球種を絞らせない。
(……今日もエグいわ)
伊藤は腕を組みながら、夏目から目を離せなかった。
3回表を終え、再び守り。
事件は唐突に起きた。
相手の九番がマウンドへ鋭い打球を返してきた。
夏目は反射的に右手を出した。
中村が叫ぶ。
「バカッ!!やめ――!」
ガンッッ!!
鈍い衝撃音。
打球はショート方向へ転がりアウトになったが――
夏目は右手を握ったまま動かない。
伊藤がベンチから飛び出し、保冷剤を当てる。
「腫れてる……!これ、しばらく投げられないわよ!」
中村が絶望の声を上げる。
「ピッチャー交代……でも山田じゃ……!」
佐藤も青ざめていた。
「お、おい夏目……右手……」
夏目は指をゆっくり開閉しながら言った。
「……まあ、左で投げりゃいいだろ」
ベンチ全員が叫ぶ。
「「「はぁぁぁ!?!?」」」
伊藤も混乱した。
「左って……あなた右投げでしょ!?何言って――」
夏目は左肩を回し、ボキボキと音を鳴らした。
「そもそも俺、左利きだし。たぶん……160くらいなら出るだろ」
中村が頭を抱える。
「化け物!!両腕で160出る高校生とか聞いたことねぇ!!」
佐藤は震えた。
「お前……左利きだったの……?今知ったんだけど……」
審判が確認する。
「開明高校、投球続行できますか?」
夏目は静かに言った。
「できます」
中村が怒鳴る。
「お前が答えるな!!」
しかし続行は決まった。
球場がざわつく。
右腕の怪物が――
今、未知の左腕でマウンドに立とうとしている。
夏目孝太郎という存在の“底”が、
また一段深く開き始めていた。




