第23話 怪物、完全試合を達成する
夏目が完璧すぎる投球を続ける中、試合は静かに折り返していた。
地方球場であるにもかかわらず、観客席には妙な空気が漂っている。
——“誰もが気付いているのに、誰も言わない”。
そんな雰囲気。
「……これ、完全試合いけるんじゃね?」
「いや言うな!!フラグだろ!!」
「でもストライクしか投げてないぞ!?」
「だから黙れって言ってんだよ!!」
ざわめきだけが増幅し、実況席のない県大会ならではの生々しさが球場に満ちていた。
ベンチでも同じだった。
中村は膝を抱えて落ち着かず、
伊藤はノートを取りながらも視線が何度も夏目へ吸い寄せられた。
(……本当に、この人……)
マウンドに立つたび、空気が変わる。
圧倒的な存在感。
しかも本人はそれに気付いてすらいない。
伊藤は、指先がわずかに震えているのを感じた。
(完全試合……あるかもしれない)
球場全体が同じ予感を共有していた。
——ただ一人を除いて。
夏目本人である。
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◆6回表 (開明の攻撃)
ノーアウト、ランナーなし。
1番・夏目孝太郎。
普通ならツーベース……のはずだった。
だが、中継プレーで二塁手がボールに触れるより早く、夏目はもう三塁を蹴っていた。
観客席がざわめきを飛び越えて悲鳴に近い叫びを上げる。
「ランニングホームランだとぉぉ!?!?」
これで 5−0。
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◆6回裏
2アウトランナーなし。
翔栄館の9番打者がバッターボックスに立つ。
この試合で唯一“精神が崩壊していないように見える選手”だ。
バットを握り、大声で叫んだ。
「お、俺が打ったらぁぁあ!!」
相手ベンチが静まり返る。
(やめろ……刺激するな……!)
彼は知らなかった。
今叫んだ相手が“刺激してはいけないタイプ”であることを。
夏目は軽く肩を回し、淡々とボールを握った。
——投球。
ズドン。
空気ごと殴ったような音。
ミットが揺れ、観客席が震える。
ストライク。
9番打者は震える声で言う。
「……見えねえ……」
キャッチャー佐藤は心の中で返す。
(大丈夫だ、俺も見えてねぇ)
第二球。
似た軌道、なのにわずかに伸びている。
「ストライーク!」
第三球——球が消えた。
9番は空を切るだけ。
三振。
翔栄館のベンチは沈黙した。
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◆7回・8回
もはや儀式だった。
震える打者。
無表情の夏目。
「ストライク!」と叫ぶ審判。
そして三球三振。
観客席も異様な空気に包まれる。
「ちょっと……怖くなってきたわ……」
「今日、一度もバットに当たってねぇんだよな……?」
伊藤は夏目のフォームから目を離せなかった。
(……きれい)
力任せではない。
ただ効率だけを極めたような、無駄のない投球。
息をするのも忘れた。
(……どうして私、こんなにドキドキしてるんだろ
試合のせい? それとも――)
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◆9回裏 ——あと3人
スコアは5-0。
夏目はここまで走者ゼロ。
ベンチは神事を見守るような静けさに包まれていた。
中村は手を握りしめ震え続けている。
「な、夏目……頼む……頼む……」
夏目はまったく気付かぬままマウンドへ向かった。
(……なんで静かなんだ?)
完全試合の意味がわからない夏目は、周りが緊張していることに疑問を持っていた。
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◆7番打者
打席に立つだけで精一杯のようだった。
ズドン。
一球で心が折れる。
三球目——振られもせず三振。
あと二人。
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◆8番打者
涙目でバットを構える。
夏目はストレートのみで押し切るつもりらしい。
佐藤は泣きそうだった。
(……ストレートばっか要求してくんなよ……左手限界だぞこれ……)
ズドン。
ズドン。
ズドン。
三球三振。
観客席が息を呑む。
伊藤の胸も跳ねた。
(……あとひとり)
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◆最後の打者
翔栄館で唯一、まだ精神の形を保っている9番打者。
彼は静かにバットを握り、誰にも聞こえない声でつぶやく。
「……負けるのはいい。
でも……一回くらい当てさせてくれ」
夏目はその声を聞いてはいないはずだが、ほんのわずかだけ表情を変えた。
——投げた。
ズドン。
ストライク。
二球目。
ズドン。
ストライク。
観客席が固まる。
伊藤は息を忘れていた。
三球目。
夏目の腕が、ほんの少ししなる。
音が遅れて届く。
ズドォンッ!!
バットが空を切る。
審判の右手が上がる。
「——三振!!」
球場全体が叫びと拍手に包まれた。
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◆完全試合達成
中村が絶叫する。
「やったぁぁぁぁ!!!完全試合だぁぁぁ!!」
山田は涙目で喜び、佐藤は放心状態でミットを見つめた。
「……本当に……一回も……触らせなかった……」
夏目は淡々とベンチへ戻る。
「……ふぅ。ところで完全試合ってなんだ?」
あまりの平常運転に、全員が膝から崩れ落ちる。
中村は顔を夏目の腹にめり込ませながら叫んだ。
「夏目ぇぇ!!お前化け物ぉぉ!!」
夏目は眉をひそめる。
「離れろ。暑い」
伊藤は少し離れて夏目を見つめていた。
(……すごい。本当にすごい。
でも、どうして私は……こんなに嬉しいの?)
答えはまだ出ない。
けれど——
完全試合の瞬間、
夏目の中でも、
伊藤の中でも、
確かに何かが動き始めていた。




