第38話「世界最強の投手へ」
部屋のテレビは、音を落としたまま再生されていた。
画面の中で、赤いユニフォームの投手が投げる。
淡々と。
雑に見えるほど、迷いなく。
――バシン。
ミットの音だけは、想像できた。
打者のスイングが遅れる。
バットが折れる。
詰まる。
それでも投手の表情は変わらない。
九条昂はベッドに腰を下ろしたまま、腕を組んで見ていた。
(……やべえな)
最速表示。
170。
数字は知っている。
でも、数字よりも独特の間が嫌だった。
投げてから届くまでが短い。
短いのに、ボールが途中で姿を変える。
打者が直球に合わせた瞬間に、変化球でやられる。
変化球を待った瞬間に、真っ直ぐで勝負が決まる。
キューバのエース。
レオネル・アルバレス。
明日の相手。
メジャーのハイライトで、何度も見た。
なのに、じっくり見るほど希望が削られていく。
――普通にやったら、無理だ。
そう思ったところで、ドアがノックされた。
「入るよ」
返事をする前に、ドアが開く。
一ノ瀬修吾だった。
手にはタブレット。
「まだ見てた?」
「……はい」
九条は正直に答えた。
一ノ瀬は画面を一瞥して、軽く息を吐く。
「レオネル・アルバレスだな」
名前を聞くだけで、胸が少し硬くなる。
九条は視線を外せない。
「やっぱり、すごいですよね」
「うん。すごい」
あっさり。
誤魔化さない。
「球速。球種。制球。
全部トップクラス」
一ノ瀬は椅子に座り、タブレットを置く。
「右の夏目に近い」
九条の眉が動く。
「タイプの話な。
力で押して、選択肢を奪う」
画面のアルバレスが、またストライクを取る。
打者が、反射で振って当たらない。
一ノ瀬が言う。
「コントロールがいいから待つとやられる」
タブレットの映像が切り替わる。
打者が狙い撃ちをして、三球で終わる。
「これ、俺がやられた時」
淡々とした口調。
なのに、重い。
「速いの待ってた。
でも来たのはワンテンポ遅い変化」
九条は唾を飲み込んだ。
「……じゃあ、どうやって打つんですか」
一ノ瀬は少しだけ考え口を開く。
「一発だけ、くれる瞬間がある」
九条の視線が、自然と一ノ瀬に集まる。
「ボールが先行した時の、カウントを取りに来きた球」
タブレットが止まる。
甘い高さのストレート。
完璧じゃない。
でも“入れにきた”球。
一ノ瀬が指で示す。
「ここ」
九条は、その高さを目でなぞった。
体が勝手に、バットを握る形を作る。
「……ホームラン狙いなら?」
「そこしかない」
即答だった。
一切の飾りがない。
「ただし、一点読み。迷ったら振るな」
九条は苦く笑った。
「難易度、高すぎません?」
「高い」
一ノ瀬は頷く。
否定しない。
「でも」
一拍。
「九条は、ああいう球を一番気持ちよく振れるだろ」
九条は返事ができなかった。
高校の頃。
大学のリーグ。
夏目の速球。
甘い一球を逃さなかった自分。
……まあ、甘い球なんて全然なかったけれど。
思い出したくなくても、体が覚えている。
一ノ瀬は続ける。
「そこを外したら、追い込まれる。
追い込まれたら、次は変化球待ち。
外のボール球で振らせに来ることが多い」
かなり具体的な情報。
九条の頭の中が、整理されていく。
(……全部打つんじゃない)
(勝負する球を最初から決める)
一ノ瀬が九条を真っ直ぐ見た。
「九条」
「はい」
「明日はお前にかかってる」
胸が強く打たれる。
「俺は何がなんでも塁に出る。柳も繋ぐ。で、最後に叩く役が要る」
一ノ瀬の声が、少しだけ低くなる。
「それが、お前だ」
部屋が静かになる。
テレビの中だけが進む。
アルバレスがまた抑える。
怖い。
普通に怖い。
でも。
怖いだけじゃない。
(……やることが分かった)
九条は、ゆっくり息を吐いた。
「……分かりました」
一ノ瀬が小さく頷く。
九条は、もう一段だけ言葉を足した。
「一本でいい」
「その一本だけ、取ります」
一ノ瀬の口元がわずかに緩む。
「それでいい」
立ち上がりながら、最後に一言。
「お前なら、打てる」
ドアが閉まる。
九条は一人になった部屋で、もう一度画面を見る。
キューバのエース。
世界最強の称号を持つ投手。
でも今は。
ただの相手だった。
(……俺は、俺の仕事をする)
逃げない。
全部振らない。
勝負球を待つ。
一本でいい。
その一本が、試合を壊す。
九条昂は、ようやくタブレットを閉じた。
部屋の隅に置いたバットをに握りしめる。
そして祈るように目を閉じた。




