第37話「左は、俺の現実」
グラウンドに足を踏み入れた瞬間、
夏目孝太郎は胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。
懐かしさでも、恐怖でもない。
もっと曖昧で、名前のつかない感覚だった。
練習に「戻った」という意識はなかった。
復帰でも、再出発でもない。
ただ、誘われたから来た。
それだけだ。
中村は何も言わなかった。
伊藤の姿も見えない。
その距離感が、今はありがたかった。
キャッチボールの輪に入り、
ボールを受け取る。
革の感触。
重さ。
縫い目。
身体は、驚くほど素直に反応した。
――右で投げる。
自然だった。
考えなくても、腕が上がる。
肩が開き、体重が前に乗る。
スリークォーター気味のフォーム。
無駄のない動き。
ボールは速く、正確で、
捕る側が「取りやすい」と感じる軌道を描く。
周囲の視線が、少しずつ集まってくるのが分かった。
(……投げられる)
でも。
投げれば投げるほど、
胸の奥が、静かに冷えていく。
球速も出てる。
制球も完璧。
なのに、
心がどこにもいない。
投げているのは確かに自分なのに、
“自分が投げている感じ”が、しない。
違和感は、技術じゃなかった。
フォームが崩れているわけでも、
感覚が鈍っているわけでもない。
もっと根本的な、
存在のズレ。
(……おかしい)
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
もう一球、投げる。
やっぱり、同じだ。
完璧に近いのに、
どこか空っぽ。
その瞬間、
頭の奥に、ふと映像が差し込んできた。
小さな背中。
ぎこちない腕の振り。
必死に真似しようとする目。
――白石。
名前が浮かんだだけで、
胸が強く締めつけられた。
そこで、はっきりと分かった。
(この投げ方……)
(俺のじゃない)
右のフォーム。
スリークォーター。
効率だけを追い求めた、理想像。
それは、
白石が「こうなりたかった」投げ方だった。
俺が作ったんじゃない。
俺が選んだんでもない。
白石の中にあった理想を、
俺が身体に写し取っていただけだ。
そう理解した瞬間、
今までバラバラだった記憶が、一本に繋がった。
中村の誘いを断らなかった理由。
甲子園に行った理由。
そして――
最後まで、右にこだわった理由。
(俺の夢じゃなかったんだ)
甲子園で投げていたのは、
「自分」だと思っていた。
でも、違った。
あれは、
白石の夢だった。
「甲子園、行ってみたいな」
「テレビで見ると、すげぇよな」
あの何気ない言葉を、
俺は勝手に背負っていた。
背負っているつもりで、
本当は、自分の感情から逃げていた。
白石を忘れたわけじゃない。
忘れられるはずがない。
俺は、
白石を自分の中に閉じ込めて、
そのまま生きてきただけだ。
右で投げ続けることで、
「約束」を果たしているつもりだった。
でも。
白石は、もういない。
それでも俺は、
白石を使って、
野球をしていた。
その事実に気づいた瞬間、
右腕が、急に重く感じられた。
投げられないわけじゃない。
ただ、
このまま投げ続けてはいけない気がした。
夏目は、一度ボールを手放す。
深く、息を吸う。
そして――
左手で、ボールを握った。
指が、自然に縫い目にかかる。
胸の奥が、ざわつく。
怖い。
でも、目を逸らしたくなかった。
軽く、振る。
考えていないのに、
身体が勝手に動く。
リリースの直前、
指が強く引っかかる。
――回転。
ボールは、伸びながら、わずかに落ちた。
ジャイロ。
その軌道を見た瞬間、
夏目は、はっきりと理解した。
これは才能じゃない。
偶然でもない。
あの頃、
誰にも言わず、
誰にも見せず、
ただ驚かせたくて投げ続けた。
その時間が、
身体に染みついていただけだ。
左で投げたときだけ、
身体と心が、同じ場所にある。
右は、白石の夢。
左は、俺の現実。
甲子園を目指すために作られた数値も、
ただの幻想だった。
そして――
俺はもう、
誰かの夢を背負わなくても、
野球をしていい。
そう思えた瞬間、
胸の奥で、長い間絡まっていたものが、
静かにほどけていった。
夏目孝太郎は、
もう一度、左手でボールを握る。
今度は、
逃げるためじゃない。
自分として、立つために。




