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ステータスALL Sの受験生が170キロで高校野球を終わらせた件  作者: 白峰レイ
第2章 大学編

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第37話「左は、俺の現実」

グラウンドに足を踏み入れた瞬間、

夏目孝太郎は胸の奥がわずかにざわつくのを感じた。


懐かしさでも、恐怖でもない。

もっと曖昧で、名前のつかない感覚だった。


練習に「戻った」という意識はなかった。

復帰でも、再出発でもない。


ただ、誘われたから来た。

それだけだ。


中村は何も言わなかった。

伊藤の姿も見えない。


その距離感が、今はありがたかった。


キャッチボールの輪に入り、

ボールを受け取る。


革の感触。

重さ。

縫い目。


身体は、驚くほど素直に反応した。


――右で投げる。


自然だった。

考えなくても、腕が上がる。

肩が開き、体重が前に乗る。


スリークォーター気味のフォーム。

無駄のない動き。


ボールは速く、正確で、

捕る側が「取りやすい」と感じる軌道を描く。


周囲の視線が、少しずつ集まってくるのが分かった。


(……投げられる)


でも。


投げれば投げるほど、

胸の奥が、静かに冷えていく。


球速も出てる。

制球も完璧。


なのに、

心がどこにもいない。


投げているのは確かに自分なのに、

“自分が投げている感じ”が、しない。


違和感は、技術じゃなかった。


フォームが崩れているわけでも、

感覚が鈍っているわけでもない。


もっと根本的な、

存在のズレ。


(……おかしい)


ふと、そんな言葉が浮かぶ。


もう一球、投げる。


やっぱり、同じだ。


完璧に近いのに、

どこか空っぽ。


その瞬間、

頭の奥に、ふと映像が差し込んできた。


小さな背中。

ぎこちない腕の振り。

必死に真似しようとする目。


――白石。


名前が浮かんだだけで、

胸が強く締めつけられた。


そこで、はっきりと分かった。


(この投げ方……)


(俺のじゃない)


右のフォーム。

スリークォーター。

効率だけを追い求めた、理想像。


それは、

白石が「こうなりたかった」投げ方だった。


俺が作ったんじゃない。

俺が選んだんでもない。


白石の中にあった理想を、

俺が身体に写し取っていただけだ。


そう理解した瞬間、

今までバラバラだった記憶が、一本に繋がった。


中村の誘いを断らなかった理由。

甲子園に行った理由。


そして――

最後まで、右にこだわった理由。


(俺の夢じゃなかったんだ)


甲子園で投げていたのは、

「自分」だと思っていた。


でも、違った。


あれは、

白石の夢だった。


「甲子園、行ってみたいな」

「テレビで見ると、すげぇよな」


あの何気ない言葉を、

俺は勝手に背負っていた。


背負っているつもりで、

本当は、自分の感情から逃げていた。


白石を忘れたわけじゃない。

忘れられるはずがない。


俺は、

白石を自分の中に閉じ込めて、

そのまま生きてきただけだ。


右で投げ続けることで、

「約束」を果たしているつもりだった。


でも。


白石は、もういない。


それでも俺は、

白石を使って、

野球をしていた。


その事実に気づいた瞬間、

右腕が、急に重く感じられた。


投げられないわけじゃない。

ただ、

このまま投げ続けてはいけない気がした。


夏目は、一度ボールを手放す。


深く、息を吸う。


そして――

左手で、ボールを握った。


指が、自然に縫い目にかかる。


胸の奥が、ざわつく。


怖い。

でも、目を逸らしたくなかった。


軽く、振る。


考えていないのに、

身体が勝手に動く。


リリースの直前、

指が強く引っかかる。


――回転。


ボールは、伸びながら、わずかに落ちた。


ジャイロ。


その軌道を見た瞬間、

夏目は、はっきりと理解した。


これは才能じゃない。

偶然でもない。


あの頃、

誰にも言わず、

誰にも見せず、

ただ驚かせたくて投げ続けた。


その時間が、

身体に染みついていただけだ。


左で投げたときだけ、

身体と心が、同じ場所にある。


右は、白石の夢。

左は、俺の現実。


甲子園を目指すために作られた数値も、

ただの幻想だった。


そして――

俺はもう、

誰かの夢を背負わなくても、

野球をしていい。


そう思えた瞬間、

胸の奥で、長い間絡まっていたものが、

静かにほどけていった。


夏目孝太郎は、

もう一度、左手でボールを握る。


今度は、

逃げるためじゃない。


自分として、立つために。

 

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