第36話「最初から、中にいた」
開明高校近くの公園は、相変わらず中途半端だった。
外野は無駄に広いのに、フェンスは低い。
ベンチは古く、土はところどころ剥げている。
公式戦なんて、到底できない場所。
それでも――
中村秀人にとっては、すべてが始まった場所だった。
「……久しぶりだな」
中村は、ベンチに腰を下ろしたまま言った。
立ち上がらない。
変に構えない。
昔と同じ距離感だった。
「伊藤からな」
「全部は聞いてねぇけど……まあ、だいたい」
そう言って、空を見上げる。
「野球、離れてるんだって?」
夏目は、答えなかった。
中村はそれでいいと思った。
答えが出る状態じゃないことは、最初から分かっていた。
「なあ、夏目」
中村は、地面を指でなぞりながら続ける。
「覚えてるか?」
「俺がここで、お前に頼み込んだ日」
夏目の視線が、自然と足元に落ちる。
「……覚えてる」
中村は、少しだけ笑った。
「だよな」
「人生で一番みっともなかった日だわ」
夏目は、何も言わない。
「膝、ぶっ壊してさ」
「大会、無理だって言われて」
「正直、あの瞬間」
「全部終わったと思った」
中村の声は、淡々としていた。
昔話をするときの、あの独特の落ち着き。
「俺さ」
「野球部、作りたかっただけなんだよ」
夏目が顔を上げる。
「才能もねぇ」
「身体も弱ぇ」
「試合に出たことも、ほとんどねぇ」
中村は、自嘲するように鼻で笑った。
「でもさ」
「ユニフォーム着て、仲間と試合するのが夢だった」
「それだけ」
言い切る。
「で、最初に集めたのが」
「お前だった」
夏目は、少し眉を寄せた。
「名義貸しでいいって言っただろ」
「言った」
中村は即答した。
「ほんとにそれでよかった」
「来なくていいし、練習もしなくていい」
「ただ名前が欲しかっただけだ」
少し間。
「……でもな」
中村は、ここで初めて夏目を見る。
「俺、顧問に言われたんだよ」
「9人揃ったんだから、夏目外してもいいだろって」
夏目は知らなかった。
中村はしっかりと覚えていた。
「俺、なぜかさ」
「外したくなかった」
理由はなかった。
「直感」
「ほんと、それだけ」
中村は肩をすくめる。
「で、県大会前日に怪我だ」
「人生、皮肉すぎだろ」
少しだけ笑ってから、続ける。
「没収試合になるって聞いて」
「部室で土下座した」
「みんなの前でな」
夏目の喉が、わずかに鳴る。
「そこで誰かが言ったんだ」
「夏目が登録されてれば、代わりいたのにって」
中村は、ベンチを軽く叩いた。
「雷落ちたみたいだった」
「そうだ」
「夏目がいるじゃねぇかって」
中村は、少しだけ声を落とす。
「俺さ」
「あのとき初めて思ったんだ」
「……ああ」
「俺、こいつを部員だと思ってたんだなって」
沈黙。
風が、フェンスを揺らす。
「だから頼んだ」
「投げろなんて言ってねぇ」
「試合に出てくれってだけだ」
中村は、ゆっくり立ち上がる。
「レフトでさ」
「初めてグラウンド立ったときのお前」
「俺、忘れられねぇんだよ」
中村は、笑った。
「助けに来た顔じゃなかった」
「野球してる目だった」
「ボール追って」
「カバー入って」
「次のプレー見て」
「……楽しそうだったぞ」
夏目の指が、わずかに動く。
「だからな」
中村は、言葉を選ばなかった。
「お前が野球部に入った理由」
「優しさだけじゃねぇ」
「好きじゃなきゃ、あそこまでやらねぇ」
「甲子園もそうだ」
「怖かっただろ?」
夏目は、静かに頷いた。
「でも」
「楽しかったろ」
それは、否定できなかった。
中村は、それ以上踏み込まない。
「別にさ」
「今すぐ戻れとか言わねぇ」
「投げろとも言わねぇ」
ただ一つだけ。
「お前は」
「野球の外にいたわけじゃねぇ」
「最初から、ずっと中にいた」
中村は、空を見上げた。
「それだけは」
「忘れんな」
沈黙が落ちる。
長い時間。
夏目は、ゆっくりと息を吐いた。
「……覚えてるよ」
中村が、少しだけ振り返る。
「ここで」
「お前が泣きながら頭下げてたの」
中村は、照れ隠しみたいに鼻を鳴らした。
「黒歴史だわ」
「でも」
夏目は、言葉を探しながら続ける。
「……楽しかった」
それだけだった。
中村は、何も言わない。
ただ、笑った。
伊藤は、少し離れた場所で二人を見ていた。
この会話に、自分が入る余地はない。
でも――
確かに分かった。
夏目孝太郎が、
野球を始めた理由は、ここにある。
それは義務でも、使命でもない。
ただ。
「楽しかった」
その一言に、すべてが詰まっていた。




