第35話「投げる顔」
夕方のキャンパスは、妙に静かだった。
講義が終わる時間帯なのに、人の流れが途切れている。
風だけが、木の葉を揺らしている。
伊藤玲奈は、ベンチに座ってスマホを握っていた。
画面には、名前。
中村秀人。
何度も連絡を取った相手じゃない。
むしろ、ほとんど連絡を取らなかった。
それでも。
今、頼れる人間は一人しかいなかった。
コール音が鳴る。
一回。
二回。
出なかったらどうするか。
そんなことは考えていなかった。
三回目の途中で、通話がつながる。
「……伊藤?」
少し驚いた声。
でも、嫌そうではない。
「久しぶり。突然ごめん」
「いや……どうした?」
問い返す声は、落ち着いていた。
高校の頃と変わらない。
伊藤は、前置きをしなかった。
「中村くん。夏目くんと、話してほしい」
一瞬。
電話の向こうが静かになる。
「……理由は?」
短い質問だった。
誤魔化しを許さない聞き方。
伊藤は、嘘をつかなかった。
でも、全部も言わなかった。
「昔のことを思い出してる。でも、戻れなくなってる」
それだけ。
それで、十分だった。
電話口で、息を吸う音がした。
「……それ、伊藤が言うってことは」
間。
「相当だな」
「うん」
伊藤は、即答した。
「もう、野球がどうこうの話じゃない」
「生き方の話になってる」
沈黙が、長くなる。
伊藤は、スマホを耳に当てたまま、視線を落とした。
舗道のひび割れ。
影の形。
自分が今、どれだけ無理なことを頼んでいるかは分かっていた。
それでも。
「……私じゃ、届かないところがある」
その言葉は、自然に出た。
悔しさも、自己否定も混じっていない。
ただの事実だった。
「私が隣にいても」
「支えることはできるけど」
「あの人が、自分で立つ理由にはなれない」
電話の向こうで、中村が小さく笑った。
「……伊藤、お前変わったな」
「そう?」
「前なら、全部一人で抱え込んでるだろ?」
伊藤は、少しだけ目を細めた。
「抱え込んで、壊れる人を見たから」
その答えに、中村は何も言わなかった。
代わりに、ぽつりと話し始める。
「俺さ」
「今、教育学部にいるんだよ」
伊藤は驚かなかった。
「甲子園のあと、ずっと考えてたんだ」
「勝ったとか、負けたとかじゃなくて」
「あの時間が、なんだったのか」
中村の声は、静かだった。
でも、芯があった。
「野球ってさ」
「誰かの人生を、前に進ませる力がある」
「逆に」
「止めちまうこともある」
一拍。
「それを、途中で放り出したやつを」
「教師になりたいとか言いながら、見て見ぬふりはできねぇ」
伊藤は、唇を噛んだ。
「……お願い」
声が、少しだけ低くなる。
「夏目くんに、会って」
「説得してほしいわけじゃない」
「答えを与えてほしいわけでもない」
「ただ」
「同じ場所を見た人の言葉を、投げてあげて」
沈黙。
風の音が、耳に入る。
やがて。
「……分かった」
即答ではなかった。
でも、逃げなかった。
「日程、教えろ」
伊藤は、息を吐いた。
ようやく、肺に空気が入った気がした。
「ありがとう」
「礼を言われるようなことじゃねぇよ」
少し間を置いて、中村が言う。
「なあ、伊藤」
「今のあいつ」
「まだ、投げてる顔してるか?」
伊藤は、少しだけ考えた。
公園で立ち止まった背中。
画面を見つめる横顔。
何も言わずに、拳を握ったあの瞬間。
「……ええ」
「まだ、投げてる」
電話の向こうで、短く笑う声。
「なら、大丈夫だ」
「投げる顔してるやつは」
「まだ、終わってねぇ」
通話が切れる。
伊藤は、スマホを膝の上に置いた。
空を見上げる。
夕焼けが、少し滲んでいる。
(……これでいい)
自分が前に出る必要はない。
主役になる必要もない。
ただ、
正しい場所に、正しい人を連れてきただけだ。
伊藤玲奈は、静かに立ち上がった。
次に進む準備は、もう整っていた。




