第34話「戻ってしまった人」
過ごしやすい秋が終わり、肌寒い季節がやってきた。
講義が終わり、人の流れが廊下に溢れ出す。
「……今日、学食?」
伊藤が、ノートを閉じながら聞いた。
「ああ」
夏目は即答した。
それだけで、二人は歩き出す。
特別な約束も、相談もない。
最近は、だいたいこうだった。
学食は昼時を少し外していて、騒がしすぎない。
トレーを取り、並び、向かい合って座る。
伊藤は箸を動かしながら、何気なく言った。
「最近さ」
「ん?」
「返事、早いよね」
夏目は一瞬だけ考えた。
「……そうか?」
「うん。前より」
その言葉に、夏目は何も返さなかった。
否定もしない。
ただ、黙って食事を続ける。
伊藤は、それ以上突っ込まなかった。
トレーを返す。
人の流れを避けるタイミング。
歩き出す間合い。
すべてが、少しだけ“的確”だった。
——問題はない。
誰が見ても、そう言うだろう。
でも、伊藤の中には引っかかるものが残っていた。
以前の夏目には、空白があった。
声をかけても、一拍遅れる。
沈黙が、ぼんやりと宙に浮く。
今は違う。
沈黙が、選ばれている。
それが、どうしても引っかかった。
⸻
午後。
図書館の帰り道。
並んで歩きながら、伊藤は足を止めた。
春の風が、二人の間を抜ける。
「最近、眠れてる?」
問いかけは軽い。
けれど、答えはすぐ返ってきた。
「ああ。前よりは」
一拍も置かずに。
伊藤は、そこで確信した。
“前より”。
比較している。
整理された言葉だ。
回復途中の人間が、無意識に使う言葉じゃない。
伊藤は、夏目の横顔を見る。
穏やかだ。
でも、どこか張りつめている。
感情が戻っていないんじゃない。
隠している。
伊藤は、逃げ場のない距離で言った。
「夏目くん」
名前を呼ぶ声は、静かだった。
「……記憶、戻ってるわよね」
夏目の肩が、わずかに揺れた。
否定しない。
驚かない。
ただ、視線を逸らす。
それだけで、答えだった。
伊藤は続けなかった。
責めもしない。
少し間を置いて、言う。
「言わなくていい」
一歩、近づく。
「でも、一人で抱えるには……それ、重すぎるんじゃない?」
夏目の拳が、ゆっくりと握られる。
初めて見せる、明確な反応だった。
「……戻った、っていうより」
低い声。
「思い出してしまった、が近い」
伊藤は、息を吐いた。
やっぱり、そうだ。
「誰にも言ってない?」
「言える感じじゃなかった」
それは逃げじゃない。
防衛だ。
伊藤は、少しだけ声を落とす。
「……野球が関係してるの?」
「関係ないとは、言えない」
はっきりした答えだった。
伊藤は、ここで一歩踏み込む。
「今、野球をどう思ってる?」
夏目は困ったように笑った。
「やりたい気は、ある」
一拍。
「でも……投げていいのか分からない」
伊藤の胸が、静かに締めつけられる。
技術の問題じゃない。
才能でも、将来でもない。
これは——
自分が、そこに立つ資格があるのかという問いだ。
伊藤は、はっきり言った。
「今、答えを出す必要はない」
夏目が顔を上げる。
「むしろ、今は出しちゃいけない」
断定だった。
「今野球を選んだら、それは前に進むためじゃなくて、過去から逃げるためになる」
夏目は、反論しなかった。
代わりに、ぽつりと零す。
「……もう、壊れてる気がする」
伊藤は、首を横に振った。
「壊れてる人は、自分が壊れてるかどうかを考えない」
そして、言い切る。
「あなたは、まだ立ってる」
一歩、近づく。
「順番を守ろう。
まず、人として立ち直る。
野球は、そのあとでいい」
夏目は、しばらく何も言わなかった。
でも、逃げなかった。
それだけで、十分だった。
伊藤は歩き出す。
「一人で抱えなくていい」
少し遅れて、夏目がついてくる。
まだ重い。
まだ不安定だ。
けれど——
崩れ落ちる寸前で、確かに踏みとどまっている。
伊藤は、心の中で静かに誓った。
この人が、また野球を選ぶなら。
それは“逃げ”じゃなく、
自分で選んだ道でなければならない。
そのために、自分はここにいる。




