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ステータスALL Sの受験生が170キロで高校野球を終わらせた件  作者: 白峰レイ
第2章 大学編

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第34話「戻ってしまった人」

過ごしやすい秋が終わり、肌寒い季節がやってきた。


講義が終わり、人の流れが廊下に溢れ出す。


「……今日、学食?」


伊藤が、ノートを閉じながら聞いた。


「ああ」


夏目は即答した。


それだけで、二人は歩き出す。

特別な約束も、相談もない。

最近は、だいたいこうだった。


学食は昼時を少し外していて、騒がしすぎない。

トレーを取り、並び、向かい合って座る。


伊藤は箸を動かしながら、何気なく言った。


「最近さ」


「ん?」


「返事、早いよね」


夏目は一瞬だけ考えた。


「……そうか?」


「うん。前より」


その言葉に、夏目は何も返さなかった。

否定もしない。

ただ、黙って食事を続ける。


伊藤は、それ以上突っ込まなかった。


トレーを返す。

人の流れを避けるタイミング。

歩き出す間合い。


すべてが、少しだけ“的確”だった。


——問題はない。

誰が見ても、そう言うだろう。


でも、伊藤の中には引っかかるものが残っていた。


以前の夏目には、空白があった。

声をかけても、一拍遅れる。

沈黙が、ぼんやりと宙に浮く。


今は違う。


沈黙が、選ばれている。


それが、どうしても引っかかった。



午後。

図書館の帰り道。


並んで歩きながら、伊藤は足を止めた。


春の風が、二人の間を抜ける。


「最近、眠れてる?」


問いかけは軽い。

けれど、答えはすぐ返ってきた。


「ああ。前よりは」


一拍も置かずに。


伊藤は、そこで確信した。


“前より”。


比較している。

整理された言葉だ。


回復途中の人間が、無意識に使う言葉じゃない。


伊藤は、夏目の横顔を見る。


穏やかだ。

でも、どこか張りつめている。


感情が戻っていないんじゃない。

隠している。


伊藤は、逃げ場のない距離で言った。


「夏目くん」


名前を呼ぶ声は、静かだった。


「……記憶、戻ってるわよね」


夏目の肩が、わずかに揺れた。


否定しない。

驚かない。


ただ、視線を逸らす。


それだけで、答えだった。


伊藤は続けなかった。

責めもしない。


少し間を置いて、言う。


「言わなくていい」


一歩、近づく。


「でも、一人で抱えるには……それ、重すぎるんじゃない?」


夏目の拳が、ゆっくりと握られる。


初めて見せる、明確な反応だった。


「……戻った、っていうより」


低い声。


「思い出してしまった、が近い」


伊藤は、息を吐いた。


やっぱり、そうだ。


「誰にも言ってない?」


「言える感じじゃなかった」


それは逃げじゃない。

防衛だ。


伊藤は、少しだけ声を落とす。


「……野球が関係してるの?」


「関係ないとは、言えない」


はっきりした答えだった。


伊藤は、ここで一歩踏み込む。


「今、野球をどう思ってる?」


夏目は困ったように笑った。


「やりたい気は、ある」


一拍。


「でも……投げていいのか分からない」


伊藤の胸が、静かに締めつけられる。


技術の問題じゃない。

才能でも、将来でもない。


これは——

自分が、そこに立つ資格があるのかという問いだ。


伊藤は、はっきり言った。


「今、答えを出す必要はない」


夏目が顔を上げる。


「むしろ、今は出しちゃいけない」


断定だった。


「今野球を選んだら、それは前に進むためじゃなくて、過去から逃げるためになる」


夏目は、反論しなかった。


代わりに、ぽつりと零す。


「……もう、壊れてる気がする」


伊藤は、首を横に振った。


「壊れてる人は、自分が壊れてるかどうかを考えない」


そして、言い切る。


「あなたは、まだ立ってる」


一歩、近づく。


「順番を守ろう。

 まず、人として立ち直る。

 野球は、そのあとでいい」


夏目は、しばらく何も言わなかった。


でも、逃げなかった。


それだけで、十分だった。


伊藤は歩き出す。


「一人で抱えなくていい」


少し遅れて、夏目がついてくる。


まだ重い。

まだ不安定だ。


けれど——

崩れ落ちる寸前で、確かに踏みとどまっている。


伊藤は、心の中で静かに誓った。


この人が、また野球を選ぶなら。

それは“逃げ”じゃなく、

自分で選んだ道でなければならない。


そのために、自分はここにいる。


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