1.奇妙なバス
ほぼ同名の連載作品と内容は変わりません。
そちらが原因不明のエラーで更新できなくなったため、新連載と言う形で連載を続けさせていただきます。
私にかかった追っ手は撒いたつもりでいたが、気づいたら後をつけられていた。下手くそな尾行である。もしや、わざと気づかせたのだろうかと思うほどにあからさまなそれだったが、どうやらあれで本気らしい。笑止。いくら歩いても引き離すことができない、執拗な追跡にほとほと呆れ果てながら、さて今度はどう撒いてやろうと考えをめぐらせた。
この鬼ごっこはは、我々の組織が居を構えるアパートメント、別名アジトに端を発する。
秘密結社様の性質を帯びている我々組織は、ここ数年、同様の性質を持つ別の組織と敵対してきた。その組織、我々の組織内での通称を「結社」というのだが、その「結社」が我々に有利であり続けるこのところの戦況に焦ってか、本日、非戦闘員も起居する集合住宅であるということ丸きり無視した、朝早くからの奇襲を仕掛けてきたのであった。この余裕のなさこそ、彼らの敗因、少なくともその一つであろうと私は考える。どっしりと、ゆとりを持って物事を進めれば、無謀な襲撃よりは多少はましな方策とて見えてこようものを。「結社」がこれほどに脳の足りぬ輩の集まりであれば、我々の完全勝利の日もさほど遠くないだろうと思われた。
空は良く晴れていた。明るい日差しの中、飛び交う発炎筒であったり睡眠ガスであったり閃光弾であったり、兎角、何とか有害と無害の境目を見切っていそうでいなさそうな物品を次から次へと持ち出してきた馬鹿者ども相手に、小一時間ばかり応戦した。挙句に、同じアパートメントに暮らす皆々様に迷惑をかけぬことを最優先すべきと頭目が言い出した。一歩も退くな! などと格好をつけたのは自分自身のくせに――要は、初めて体験する防衛戦というものに一時間ほども興じていたが、最終的に飽きたのであろう。まことに自分勝手な言い分に呆れもしたが、まあ正論ではあったし、ここのところ入れたばかりの新人たちの体調が万全ではないという事情もあって、その意見を容れることになった。ちなみに彼らの体調不良はどこぞの頭目が、周囲がやめろというのに厨房に立ったりしたのが最大の要因である。
これ以上の正面衝突を避けるため、我々は相手の戦力を分散させることを目的に、私以下三名の、所謂幹部を囮にすることにした。責任如何よりは知名度による人選である。名と顔が知れているというのは誇らしいが、こういうときにこういう羽目に陥るのであれば、それも考え物である。
囮は四人いるのだから、それぞれ東西南北へ向かうのは定石。まるで追い立てられているかのように、身一つで駆け出した餌にまんまと引っかかった阿呆どもは、さすがに戦力をいくつにも割くことができず、本隊と別働隊、合計三つに分かれた、と無線越しに連絡が寄越された。本隊と我々囮部隊が、それぞれが遠隔にあっても問題ないよう通信を可能にしておいた下準備は、副頭目の案でさえなければ、実際手放しで褒め称えたいほどにいい考えである。しかし、私はあやつとは未来永劫馬が合わぬので死んでも褒めぬ。
さて追っ手が二つ、囮が四人となれば、囮は二人あぶれることになる。それが自分であってくれと心底願ったが、残念ながら、私のすぐ後ろには、執念深い足音がついてきた。土地勘を生かし、住宅街の裏路地を縦横無尽に駆け回った私は、頃合を見計らい、予てから自分で決めておいたとおり、大通りへ躍り出た。祝日の昼間である。良い具合の人混みの中に紛れ込んだ私は、後を追ってきた猟犬どもが、巨大な人の波の中に私を見失ったことを確認し、逃走用から散策用へと歩調を切り替えた。後は、頭目から召集の連絡がくるまで、何でもない顔をして漫ろ歩いていれば良かった。
――その筈が、10分も経たぬうちに再び見つかってしまったのは、私自身に落ち度があったせいとは思わぬ。先方の運がよかったに違いあるまい。やれやれ、次はどう逃げるべきか。
距離を測りながら、気づかれぬようにと(思い込みながら)後を尾けてくる人数を数える。数人が前へ回りこみ、挟み撃ちにする戦法と知れた。効果的だが、気づかれるようではまるで無意味であろう。
頃合いを見計らって、私は不意に道の端に寄り、犬どもがどうにかするより先に、偶然停まったバスにさっと乗り込んだ。ステップを駆け上がりながら後ろを振り向くと、驚いた彼らが後を追って乗り込もうとし、しかし人混みに阻まれてバス停へと近づけないでおろおろとする滑稽な様子が見えた。閉まる扉越しに鼻で笑ってやり、さてどこまで乗っていこうかと朧に考えながら、開いていた座席に座った。
通信機が沈黙している。電池切れではないようだ。圏外に出たということなのだろうか。私はそういった方面に疎いため、詳しいことは知らないが、副頭目の命令で技術担当が三十分で仕上げたこれは、世に一般に普及する携帯電話や東勢バーの類とは仕組みが異なっている。相手がそれらと同じつもりで盗聴を仕掛けても無駄という利点がある反面、能力にも限りがあり、電波が届く範囲というものが狭いのだ。遺憾ながら、圏外ではお互い連絡がつかぬが、それは頭目側も気がついているはずだ。なれば、連絡がつかぬ理由をとやかく問われることはない。つまり、己の好きなようにほっつき歩いて、好きなときに帰ればよかろうと勝手に決めて、通信機を手提げ鞄に放り込んだ。盗聴を恐れて、携帯電話は元より使用禁止令が出ている。
行き先も見ずに飛び乗ったバスである。どこをどう通ってどこへ行くのかは知れないが、所詮は市営、市より外へは行かぬ。もとより目的地があるわけでもないし、鷹揚に構えることにして、しばらくバスの旅を楽しむことにした。ぼんやりと窓外を眺めれば、見慣れぬ景色にやや戸惑う。この町には三年ほど住むが、自宅とアジト、それから少数の知り合いの住処を行ったり来たりするほかは、繁華街をうろついたりすることもないため、未だに見も知らぬ土地がそこかしこにある。車窓から見える風景に馴染みがないのも当然だが、しかし、そこは特に異様に思えた。ここはどこだろう、とバスの前方にあるはずのモニターで停留所を確認しようとしたが、気づかぬうちに社内は混みだしており、人の頭が邪魔をして、座っている位置からは見ることができなかった。
視線を車内から外に戻して唖然とする。唐風の鮮やかな赤い門がにょっきりと聳え立っていた。くすんだ緑色の看板に妙な書体の金字で、おそらくは町か通りの名前が書かれている。この市には確か、建築物の高さについて規制が在るはずだが、これはそれを超えているのではなかろうか。しかし、規制は新たな建物についてのもの。もしこれが文化遺産だったりしたなら、むしろ高さを抑えることこそが、遺物に対しての冒涜だろう。しかし、このような文化遺産のことは聞いたことがないし、門の朱塗りは真新しく見えた。修復でも行ったか。頭の上はるか高く、その門から四方八方に飾り紐が伸びていた。朱、黄、緑。鮮やかで強い色は、どれも大陸様式を想起させる。縁起の良い文字が書かれた菱形の薄紙が、あちらこちらに吊り下げられて、ひらひらと風に舞っていた。祭りか何かのように、華やかな雰囲気が満ちていた。しかし何ぞ祭りがあるという話は聞かない。道路を行ったり来たりする自動車が妙に朧に見えた。昼の明るい日差しのせいだろうか。蜃気楼のようだ――未だ、薄手なれども長袖を要する季節なのだが。
しじょう、しじょうと運転手の乾いた声が放送した。四条だけでは、四条通のどこのことだか一切わからぬではないかと考えたが、おそらくは四条烏丸であろうと検討はついた。そこにある地下鉄の駅名を四条という。四条、の一言だけが名前になっているのはそこだけだ。しかし、四条烏丸は現代の繁華街の一部をなす。こんな時代じみた建築様式があふれかえっているだろうかと頭をひねった。しかし放送は間違いなく四条といった。
比較的込んでいた車内は、四条でだいぶすっきりとした。それでも15人ばかり残っている。次で降りるか、と決めて、立ち上がった。バスは、東に向かっているようだ。四条烏丸から東へ向かえば、河原町方面のはずである。烏丸の次となればまだ河原町までは行き着かないだろうから阪急線には乗れないが、そもそも阪急線では自宅方面へ帰れない。ちょうどいい市バスの路線も思い当たらないが、そのあたりなら、きっとタクシーを拾えるだろう。やや出費がかさむのは辛いが、我慢しなくてはならない。急いで帰らなくては、頭目たちに怒られてしまう。
「定期を出しておいたほうがいいわよ」
後ろから話しかけられた。飛び上がるみたいにして驚いて振り向くと、若い女性が柔和な笑顔で微笑んでいた。黒い服――喪服に身を包んだ、見知らぬ女性だ。それが、大層気安く話しかけてきた。
「次ではあんまり長いこと停まらないから」
「はあ」
もごもごと口の中で、聞き取りづらいに違いない礼を言った。すっかり一人でいる気分に浸っていたので、急に話しかけられても、うまくその気分が抜けないで、ちゃんとした返事ができなかったのだ。しかし、それを気にした風もなく、女性はいそいそと自分自身の定期を取り出そうと鞄を探り始めた。私も乗車賃を出しておこう、と鞄の中の財布を掴んだところでふと思う。なぜ定期、と言ったのか。定期券は日常的にバスに乗る人が使うものであろう。そのような人に、先刻のようなアドバイスは無用である。妙な矛盾が気になって、問い質そうというのでもないが、女性を振り向こうとしたとき、車内放送が流れた。さあ降りるわよ、急いでと目の前の親子連れの会話にかき消されて、地名が聞き取れない。その親子連れも喪服だった。偶然か、それとも女性と目的地が同じなのだろうか。車内前方のモニターに示されているはずの停留所名を読む前に、一気に前方へと向かった人の流れに押され、慌てて財布から回数券を引っ張り出した。寺町通りくらいまでは来ただろうか。
「このバスは、この停留所から次の停留所までは停まりません。予め、ご了承ください」
車内放送の奇妙さに気づいたのは、回数券を料金箱に放り込んで、人の流れに押されるようにしてバスを飛び出てからだった。そのとき初めて、己自身以外の乗客が全員喪服姿だったことに気づいた。