婚約破棄された悪役令嬢は、ネグレクトと暴力に耐え抜いた末に隣国へ逃げ込み、皇太子から溺愛されて復讐も地位も全部手に入れる
「クラリス、何度言わせるの。あなたは姉様の引き立て役でしょう?」
華やかな金髪、明るく愛想のいい笑顔、そして優秀な頭脳と魔力を持つ姉・エリザベートに比べ、クラリスはいつも“劣っている”と言われ続けてきた。
令嬢教育も最低限、舞踏会では目立つなと叱られ、家族の中で唯一の存在価値は「エリザベートの噛ませ犬」でしかなかった。
さらに追い打ちをかけるように、婚約者である第三王子アレクシスから告げられた冷たい言葉が、クラリスの心を引き裂いた。
「君との婚約は破棄する。……僕には、君の姉君の方がふさわしいと思うんだ」
それは、ある晴れた昼下がりの庭園だった。彼女は笑顔のまま頷き、礼を述べてその場を立ち去った。だが、その夜──彼女の心は完全に壊れていた。
幼い頃から、なぜ自分だけがこんなに苦しまなければならないのかと問い続けた。
だが誰も答えてくれない。誰も助けてくれない。
「……逃げよう。もう、こんな家にいる理由なんて、ない」
夜中、使用人に見つからぬよう裏門から外へ。用意していた旅支度を背に、彼女は名門侯爵家クラウゼンの屋敷を抜け出した。
あてもなく、ただ一人で。
***
馬車と徒歩を繰り返し、数日後に辿り着いたのは、隣国アルセリオ王国だった。
国境の検問で倒れかけたところを、偶然通りかかった青年に助けられる。
「君、大丈夫か?」
透き通るような銀髪に、鋭くも優しげな瞳。
その男こそ──隣国アルセリオの皇太子、レオニス・アルセリオであった。
クラリスは彼の身分を知らぬまま、一宿一飯の恩義に感謝しながらも警戒を緩めなかった。
レオニスは名を明かさず、ただ「レオン」と名乗った。
静かに言葉を交わすうち、レオニスはクラリスの内に隠された痛みに気づいていく。
「誰に……こんな顔をさせられたんだ?」
「……関係ないでしょ」
彼女は頑なに心を閉ざし、過去のことも語らない。
だが、その佇まい、その怯えた瞳、その傷だらけの心が、レオニスの中の何かを強く揺さぶった。
やがて、クラリスが隣国から来た没落令嬢だと知ったとき、彼はつぶやいた。
「……クラウゼン家。確かに……醜い噂が多い家だったな」
それから数日後、彼女は初めて「クラリス」と名乗った。
そして、自分の過去の一部を語った。
「私は、ただ……誰かに、守られたかっただけなの。誰かに、必要だって言ってほしかった……」
レオニスは、優しくクラリスの手を取った。
「じゃあ、今から俺が言ってやる。クラリス。お前が必要だ」
だが、クラリスはすぐには頷かなかった。
「やめて。そんなの、信じられるわけない。誰も、私を愛してなんかくれなかったのよ……!」
***
しばらくして、クラリスが滞在する離宮に王族の使者が訪れる。
「レオニス殿下、王都にお戻りください」
クラリスは初めて彼の正体を知り、目を見開く。だが、レオニスは笑って言った。
「やっと名乗れるな。俺はこの国の第一皇太子、レオニス・アルセリオ。……君を迎えに来た」
その言葉は、重すぎた。
「冗談でしょ……? 私みたいな“出来損ない”に、皇太子が構うなんて」
「──違う。“君みたいな”じゃない。クラリス・クラウゼン、お前だから、俺は恋に落ちた」
クラリスは動揺し、彼から距離を置こうとする。だが、そんな彼女にレオニスは静かに言い放った。
「いいさ。焦らない。けれど──」
彼は、冷たい目で国境を振り返った。
「お前をあそこまで追い込んだ連中には、きっちりケリをつけさせてもらう」
クラリスの知らぬ間に、レオニスは彼女の家族と元婚約者の調査を始めていた。
──愛する者の過去に、地獄があったなら。
──俺はその地獄を焼き払う。
ーーーー
「──クラウゼン侯爵家を、徹底的に調べろ。隠している不正も、虐待の証拠も、全て洗い出せ」
アルセリオ王国の第一皇太子であるレオニスの命により、特務局が秘密裏に動き出した。
目的はただ一つ。クラリス・クラウゼンという令嬢をあそこまで追い込んだ者たちに、償いをさせること。
一方、クラリスはアルセリオの離宮で静かに暮らしていた。
けれど彼女の心には、複雑な感情が渦巻いていた。
(レオニス様は、私の“代わり”に復讐しようとしている。けど……そんなことをして、彼が王族としての立場を失ったら……)
そう考えたクラリスは、離宮を出て王都の修道院に身を隠す。
彼の重すぎる愛からも、まだ癒えない自分の心からも、距離を置こうとしたのだった。
しかし──
「まったく、君は……本当に逃げるのが好きだな」
修道院の庭で花に水をやるクラリスの背後から聞こえたその声に、彼女は驚き振り返る。
そこには旅装姿のレオニスが、疲れた顔で立っていた。
「……なぜ、ここが……」
「お前のことなら、いくらでも追いかけるさ。俺がどれだけ本気か、まだわかっていないのか?」
彼はそう言ってクラリスの前に跪き、小さな小箱を差し出した。
開けば、美しい紅玉の指輪が輝く。
「クラリス。お前の過去を焼き尽くすのは、もう終わった。クラウゼン家は爵位剥奪、資産凍結。姉エリザベートは王都から追放され、元婚約者のアレクシスも王家から見放された。両親は軟禁状態で裁かれる日を待っている」
「そ、そんな……」
「全部、お前が直接手を汚さずに済むようにした。あの屋敷にお前が戻ることは、もう二度とない」
そう言って、彼は真剣な眼差しを向けた。
「過去を断ち切ったら、次は未来だ。──クラリス。俺と共に、王妃として生きてほしい」
沈黙。風が草花を揺らし、修道院の鐘が遠くで鳴る。
クラリスは涙を浮かべ、震える声で答えた。
「……本当に、私なんかでいいの……? 私は、姉ほど綺麗じゃないし、社交も下手だし……」
「それでも、お前がいい」
レオニスは即答した。
「俺が愛したのは、苦しみに耐えてもなお折れなかった、お前の強さだ。誰にも媚びず、誰にも頼らず、それでも人を憎まず生きてきた、お前の優しさだ」
その言葉が、クラリスの最後の壁を崩した。
──ようやく、愛された。
心から、全てを肯定された。
彼女は涙を流しながら、レオニスの手を取った。
「……はい。私は、あなたと共に生きたい」
***
それから三ヶ月後。アルセリオ王国の王都では、次期王妃お披露目の祝宴が開かれた。
会場に現れた令嬢の姿に、各国の貴族はどよめいた。
黒いドレスを纏い、赤い宝石のティアラを戴くその女性──クラリス・クラウゼンは、もはやかつての影の令嬢ではなかった。
背筋を伸ばし、静かに微笑み、皇太子レオニスの隣で堂々と立つ彼女に、人々は目を奪われた。
舞踏会の後、レオニスはクラリスの手を取って、ひとつの部屋へと案内した。
そこは──彼女のために用意された、未来の「王妃の間」だった。
「もう、戻る場所なんて、どこにもないと思ってた。誰にも愛される資格なんてないって……」
クラリスはぽつりと呟く。
「でも今は……こうして手を取ってくれるあなたがいる。あなたの国で、あなたの隣に立つ私がいる」
レオニスは優しく微笑んだ。
「ようやくお前が笑ったな。ずっと、その笑顔が見たかった」
クラリスは、深く、深く頷く。
「レオニス様、ありがとう。私を……生き返らせてくれて」
そして、二人は静かに唇を重ねた。
それは、哀しみの連鎖を断ち切る祝福のように、温かく、優しいものだった。
***
──後に語り継がれる。
アルセリオの王妃クラリスは、元は隣国の悪役令嬢と蔑まれていたが、その才覚と気高さにより国民に慕われ、史上もっとも愛された王妃となったと。
そして、彼女を愛し抜いたレオニスは、即位後も一度たりとも側妃を持たず、ただ一人の王妃を大切にしたという。
彼らの物語は、やがて「運命の真実の愛」として、語り継がれていくことになる。