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第2話 世の中には知らなくていいことがある

 それからしばらく右目の痛みは続き、ようやく数十分経ったくらいに何とか我慢出来るくらいには痛みが引いた。


 こんなに痛かったのは生まれて初めてかもしれない。


 起き上がった俺は涙で赤くなった目を擦り、歩き始める。まだ視界が歪んでいるが、歩く分には問題はない。


 俺はよろめきながらも、路地裏から大通りへと出た。


 目が痛いからだろうか? それともずっと痛みに耐えていたからだろうか? 足がおぼつかない俺はついよろけて転びそうになってしまう。


 くそ、今日は厄日だ。

 

 何とか転ぶことなくその場に止まることができた俺は家に帰るべく歩道を歩き始めようとする。


 足を前に出した瞬間、地面に転がっていた石に気付かなかった俺はその石に躓きそのまま後ろへと倒れそうになってしまった。


 倒れてしまう!


 このままだと後ろに倒れてしまう! そう思った俺は傾く景色の中、必死に掴める物を探した。すると、丁度黒い何かが斜め後ろに見えた為、掴んでしまう。


 そして掴んだ後に、それが人らしいことに気が付いた。


 やべえ、咄嗟だったとはいえ人の肩を支えにするなんて……


 カサカサ。


 良かった……。触った感じ女性じゃないから痴漢とは思われな……ん? カサカサ?


 咄嗟に掴んだと思っていた相手の肩の触感、それは何やらザラザラとした何かの羽のような感触だった。

 

 そんな感触に疑問を持ちながらも、『まあ、そういう服なんだろう。まずは謝るべき。』と思い、振り返る。


 「あ、すみませ…… は?」

 

 そこに居たのは人ではなかった。


 黒い鳥頭、カラスのような頭、身体の二足歩行の生物。羽、いや、肉が千切れたかのように、所々が凹んでおり、肉やら骨やらが見えている。


 まさに化け物。


 もしかして今日はハロウィン? 少し早めの仮装? 違うだろ、今はまだ5月だ。


 あまりに非現実な化け物の姿に、俺はつい現実逃避じみた考えが浮かぶ。


 偽物であって欲しい。そう思う俺だが、あまりにもリアリティの高いそれは作りものではなく本物だと目が訴えかけている。


 「……えるのカ? お前、見えるのカ?」


 呆然とただ立っているだけの俺を見つめ、カラスの化け物は片言で言葉を話し始め、そして恐らく手であろう翼で俺の肩をなぞる。


 それを俺はただ見ているだけ。


 やばい……逃げなきゃ……。


 分かっていても動けない。本当に危機に陥った時、人は動けないものなんだな。


 化け物は、俺の肩から腕のかけてなぞる様に触れると、最後に手を翼で持った。


 一瞬動きを止めたかと思うと、カラスの怪物は目を開き身体を震わす。


 「見えル? 見えてル……! そレに、触れらレル!」


 これはヤバい!このままでは殺される!


 狂喜に身を震わす化け物に、直感的に死を悟った俺は、その場から離れる為に走り出す。


 「待テェ! 折角見つけたンダ! 絶対に逃さないゾ!」


 後ろから聞こえる狂喜に満ちた声を振り切るように、俺は無我夢中で走った。



 「はぁ、はぁ……逃げ切れたのか?」


 多分5分くらいだろうか。とにかくあの場所から遠くに行くことだけを考えながら走り続け、街のはずれまで来た。


 追いかけてきていたカラスの化け物を撒くことに成功したのだろう。追ってきていた化け物はもう見当たらず、あのドスの聞いた声が聞こえることもない。


 「はぁ……よ、良かった…………は?」


 切らした息を整える為に一息つこうと地べたに座ろうとした時、背後の壁から何かが出てくる。それはゆっくりと、まるですり抜けるかのように徐々に全貌を顕にする。


 クチバシ、そして黒い鳥頭。


 撒いたと思っていた怪物がそこに居た。


 「……ぁぁ、見つケタ。」


 なんだよ、それ……そんなのありかよ!


 コンクリートの壁をすり抜けてくる。そんな非現実な光景に思わず腰が抜けてしまい動けなくなる。


 「……カフッ、カァフフ!」


 化け物はニヤリと笑うと、俺の方へ手を伸ばしてくる。


 今度こそ逃げられない。


 迫り来る真っ黒い手が視界いっぱいに覆われてゆく。


 やばい、死ーー


 「はい、動かないで」


 死を覚悟したその瞬間、どこからか聞き覚えのある声が、少し前に聞いた声が聞こえてきた。


 その声と同時に、近づいていた化け物の手の動きが止まる。いや、カラスの化け物の全身その場で静止した。


 そしてよく見るとプルプルと小刻みに震えており、まるで何かに縛られたかの様に身動きができなくなっている。


 「同族の小競り合いかと思って来てみれば、ただの弱い者いじめ。そんな姿になってもまだ人を殺したいのかいって……君……さっきの少年じゃないか?」


 ため息混じりにゆっくりと近づいてくる靴の音。少し前に聞いた落ち着きのあるゆったりとしていて何処か不思議さを感じさせる声。


 「……ぁ」


 振り返るとそこには、さっき道を教えてあげたあのエロチな女性がいた。


 「さっきぶりだね、君」

 

 振り向くとそこには、さっき俺が道案内をした女性が立っていた。


 片手に小さなビニール袋を携えており、恐らく駄菓子屋帰りなのだろう。


 そこまで考えて気付く。そういえばここは駄菓子屋のすぐ近くだ。


 「……ぁ……」


 死にかけたからなのか、非現実な出来事の連続だったからなのか、声が出ない。


 いや、違う。出そうと思っているのに出ないんだ。


 俺が必死に声を出そうとしていることに気がついたのか、女性は俺に近づいてくる。


 「あ、すまないね。まさか人だとは思わなかったんだ」


 そう言うと、女性は俺の肩に軽く手を乗せ、耳元で囁いた。


 「ほら、君は自由だ。もう喋れるよ」


 「……ぁ、本当だ」


 声が出るようになって初めて気が付いた。さっきまでの俺の喉の筋肉は、まるで石のように固まって動かなくなっていたんだな。


 声が出ると分かった俺は、立ち上がろうと動こうとする……が動かない。


 何……でだ?

 

 首は動く。だがそこから下は全て、動こうとしても動かなかった。


 縛られていると言うよりも、俺の『動け』という発信命令が筋肉に届いていない。そんな感じの動かなさだ。


 体が動かないということに焦りを感じた俺は必死に動こうとする。そんな俺を見て、女性はしゃがみこみ、落ち着いた声色で言った。


 「まだ君の体は自由にさせていない。だから動こうとしても無駄だよ」


 『体は自由にさせていない』、つまり俺は動くことが出来ないと言うことか?


 いや、声だけは出る。そして首も回せるから首から下が動かせないと言うことか。


 確かめる様に部分的に動かし、首から上しか動かせないことを再確認する。


 だが、カラスの怪物が目の前にいる以上、俺はどうにかしてこの怪物と距離が取りたい。


 緊迫した状況故か、俺は動かせないと分かっている身体を動かそうと必死にもがく。


 そんな俺を見て、女性はフッと笑うとまた囁くように呟いた。


 「大丈夫、体の自由はすぐに解くよ……けどその前に君に一つ尋ねたいことがあるんだ」

 

 耳をくすぐる様な声に、早く怪物と距離を取りたい俺は急かすように頷いた。


 「別に分からないなら分からないと言ってもらってもいい。正直に答えてくれればそれでいい」


 「君は、どっち……なんだい?」


 「は?」


 どっちとは? 質問の意味が分からない。


 どっち。女性の言った質問に俺は考えを張り巡らせるが、出てくる答えはやっぱり『分からない』だった。


 「……質問の意味が分かりません」


 「そうか……うん、そうだよね」


 俺がそう言うことは予想済みだったのだろう。俺にはそれ以上聞かずにゆっくりと目を閉じ、その後カラスの化け物の方へと歩いていく。


 「あの! 動き、解いてくれません?」


 化け物を目の前に身体を一切動かせないのはとても不安だ。だから身体の不自由を解いて欲しい。


 そんな俺の不安を一蹴するかのように女性は言った。


 「もう動けるよ。」


 女性は俺を見ることなくそう言うと、俺とカラスの怪物の間に立つ。


 女性の言う通り、もう身体は動かせるようになっていた。


 俺は手足が動くのを確認した後、立ち上がり、距離を取る。


 ようやくカラスの怪物から距離を取れたことに少しだけ安堵し、恐怖も和らいだ。


 そんな俺の前で、女性は悩む仕草を見せていた。


 「さて、こいつはどうしようかな」


 しばらく悩むように腕を組みながら頭を捻った後、女性は頷いた。


 「うん、そうだな……滅するか」


 そう言うや否や、女性はカラスの化け物に向かってゆっくりと腕を伸ばす。


 「大人しくそのままゆっくりと消えていれば私に消されることも、苦しい思いもしなかったのに……まあでも、消えるのを待つのも、それはそれで地獄か」


 独り言か、それともカラスの怪物に向かって言ったのか。女性は何やら呟くと、カラスの化け物のくちばしにそっと指を置いた。


 「沢倉浩一『さわくら こういち』、最後に言い残すことはないかい? あるなら言ってくれ」


 沢倉浩一?


 女性はカラスの化け物のことをそう呼んだ。


 聞き間違いじゃ、ないよな?


 いや、確かに女性はそう言った。


 何で、何で化け物の名前が沢倉浩一なんだ?それじゃあまるでこの怪物は人間ーー


 「……その……その人間を俺に喰わせろぉ!」


 「っ!?」


 カラスの化け物は、大声で怒鳴った。その目は俺を見据えており、血走っている。


 「……人間……ねぇ。はぁ、そんな言葉が最後の言葉だなんて、奥さんも娘さんも報われないね」


 女性は俺をチラリと見た後、クチバシに置いていた指をカラスの額に置いた。


 「さようなら」


 女性が指を少し押したかと思うと、カラスの化け物は砂のように崩れ、風に飛ばされて跡形も無くなってしまった。


 さっきまでのことが嘘だったかのように、カラスの化け物は消えてしまった。

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