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頬に風花  作者: 瀬川月菜
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平定十年

 幾度もの冬を迎え、彼方を思えど、届かず。気付けば夢も見ず。時の流れとともに記憶は薄れ、身体はすっかり衰えた。若かりし頃とは異なる言葉で容色を称えられることがあったのは、比良氏当主の訪いが絶えることがなかったゆえだろう。時子は行為以上に応えることはなかったが、子を望める身体ではなくなったこともあって、いつしか比良氏の顔を見ることもなくなり、月日はひそやかに過ぎ去った。まだ、生きていた。幻氏影朝の正室から比良氏の側室になり、捨てられてなお。


 続く戦乱を厭うたすめらみことは、元号を平定と改めた。しかし号が変われば世も変わるなど幻想も幻想、祈りの声が虚しく都に漂った。

 そして平定十年。旧和であれば二十八年。

 幻氏、南の長江氏に取り込まれ、西に座す比良氏に打って出た。折しも比良一族に謀反を起こす者が現れた時期、この混乱によって中央を制され、比良氏は這う這うの体でさらに西へと逃れた。長江氏、幻氏がこれを追い、ついに比良氏討ち果たした。盛者必衰。栄枯盛衰。比良氏の栄華、ここに潰える。

 この後、朝廷に固執した幻氏と、新しき世を望んだ長江氏が対立し、長江氏が勝ちを制するが、時子にはもう関係のない話であった。一族復興を目論んで西へ落ち延びる比良氏は、時子を捨て置いて逝ったからだ。

 比良氏が討たれ、城も屋敷も取り上げられる最後まで、時子はそこにいた。ともに行こう、連れて行こうと誘う者は、時子の緩やかでいて頑なな拒絶に一人二人と減っていき、残ったのは両の手で足りるほどの数の者だった。すでに寄る辺ないからと世話を買って出た者ばかりだった。暮らしに不自由しなかったのは幼少時代の苦しみを知るがゆえだろう。あの頃のように手を荒らし、ただ人のように日々を営みながら、時子はその人の訪れを待った。

 やがて男が二人やってきた。壮年の男は長江を名乗ると、残る一人に場を譲った。目前に進み出た涼やかな若者は、覚えておられるか、と硬い声で言った。そなたこそ、と時子は微笑って応じた。

「覚えていますとも。朝光殿」

 亡き影朝の面影を宿す幻氏の若き当主に時子は目を和ませた。朝光もまた、目元を緩めた。

 黒髪は、恐らく自分に似たのだろう。眼差しの柔らかさも。まなこの健やかな光、これは影朝から継いだのだと思う。鎧兜を脱げばたちまち美丈夫が現れることだろう。しかれどもその気配の美しきこと。気高さ。誇り。かの人が望んだものが朝光にあった。だからこそここまで来た。幻氏として生き抜いたのである。満足した。これ以上なく。

「妻を娶りました。もうすぐ子が生まれます」

「それはおめでとうございます。奥方にもよろしくお伝えください」

 時子が言うと、朝光はそうっと顔色を窺うように言った。

「ともに、東明に帰られませぬか」

 優しい子に、時子は答えた。

「そなたは光。誇りの光。わたくしなどが澱ませてはならぬのです」

 時子、齢三十四。十九の若武者となった我が子との最後の邂逅であった。

「どうぞ、お健やかに」

「そなたも」と時子は応じた。

「誇りを持ってお行きなさいませ。影朝様もそう望まれましょう」

 このとき朝光はそのまま何一つ残さずに去る心算であったのだろうと思う。時子の言葉に思わずといった様子で足を止めた。振り向いた顔に過ぎるのは悲哀、悔恨、慚愧、薄明かりのような郷愁、如何ともし難い感情であった。

「覚えております。幼い私に、父上は光を見せてくださった。そして忘れませぬ。誇りあれと寿いだ母上のことを」

 母の瞳を、かの人をひたむきに追い続けたまなこをしかと見つめて、朝光は父によく似た面を深く深く下げた。

「――父上に、よろしゅう」

 時子は、頷いた。

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