『少女の休息』
「へえ」
俺はカトリーヌを描いた『初陣』『凱旋、戦勝、取り戻した神の栄光』、そして、『少女の休息』の画家たちの名前を知らない。
画家たちの名前を知らなくても損することはないし、そもそも興味がない。
『少女の休息』を買ったのは、伝説上の人物とされていたカトリーヌが実体を持って現れた場合、カトリーヌを描いて絵画として販売し、大金を手に入れ、歴史に名を残す画家になるためだからだ。
そのカトリーヌは実体を持って現れた。
なので、あとはカトリーヌをモデルにした絵画を制作し、販売して大金を手に入れ、画家として名を残すだけなので、『少女の休息』を描いたのがカトリーヌの親父さんであろうがなかろうが、大した関心事ではない。
「気の抜けた返事ですね」
カトリーヌの両腕で抱き締められているレプリカ版『少女の休息』から軋む音が聞こえた。
「私の父は悟とは違い、地位欲、名誉欲、金銭欲に惑わされる人ではありませんでした」
「どういう意味だよ、それ。俺に喧嘩を売ってるのか?」
「だって、事実でしょう。画家として歴史に名を残すというのは地位欲と名誉欲の強い現れ、趣味が金儲けというのは金銭欲の強い現れですから。私の父は悟とは違い、地位にも名誉にも金銭にも清潔な人でした」
カトリーヌが語気を強め、軽蔑したような眼差しを俺に突き刺してきた。
「調子に乗りやがってッ」
俺がカトリーヌの親父さんがどんな人物だったかなんて知る由もない。
そんな知らん奴となぜ比較され、俺の人格を毀損するような説教を聞かされなきゃいけないんだ。
だいたいカトリーヌだって、出会って数時間しか経ってない俺の人格もこれまでの人生も知る由もないはずだ。
高校を卒業した後は画家として絵画を制作し、でも絵画が売れないからアルバイトを掛け持ちしながら今日まで食ってきた。
今までの間、まわりの人間からどれだけ画家としての才能を否定され、どれほど売れない画家として馬鹿にされ、どれだけ趣味で絵を描いていると揶揄されてプライドを傷つけられてきたことか。
高校を卒業してから約十八年、それらに耐え続けてきたからこそ、今の俺がいるんだ。
「お前に何がわかるんだッ。高校を出てから俺は俺なりに頑張って、こうして食っていけてるんだッ。大金を手に入れること、画家として歴史に名を残すことを目標に頑張っている途中なんだッ。初対面から数時間しか経ってないのに偉そうに言うなッ」
思いの丈をぶちまけてやった。
感情を激昂させたあまり、顔が熱く火照り、頭皮と額から汗が滲み出ていた。
気づいたら、炬燵から出て立ち上がり、見下ろしたカトリーヌを指差していた。
カトリーヌはなおも軽蔑したような眼差しで俺を見上げていたが、突然、抱き締めていたレプリカ版『少女の休息』を炬燵布団で丁寧に拭き始めた。
「唾を飛ばさないでもらえますか。私の宝物が汚れます」
なんだ、こいつ。
無礼な態度を取ったのは、俺の思いをしっかり聞いた上でのことなのか、それとも鼻から聞いていなかったからのことなのか。
どちらにせよ、躊躇いもなく気に食わん態度を俺に見せた。
肝が据わり過ぎて、頭のネジ二、三本くらい吹っ飛んでるんじゃないのか、こいつは。
「炬燵布団で拭くなッ。汚れるだろッ。ティッシュで拭けッ」
炬燵テーブルの端っこに置いてあったボックスティッシュのティッシュを数枚手渡しする。
カトリーヌは恐る恐るティッシュを摘み取ると、指を擦り合わせて感触を確かめたり、小さく振って五月の鯉のぼりのように空を泳がせたりして、すぐに宝物を拭こうとはしなかった。
「鳥の羽毛のようにふわふわしていますが、この『ティッシュ』と呼ばれているものは、どのように作られたんですか?」
俺のことを散々軽蔑したような眼差しで刺し続けたというのに、初めて触ったティッシュの柔らかさに感動したようで、今度は無数の瞬く星を一か所に集めたような輝きをした目で訊いてきた。
なんなんだ、子どものような感情の切り替わりの早さは。
肝が据わって頭のネジが二、三本吹っ飛んでいる子どもだな、まったく。
「製紙工場で働いたことがないから詳しくはわからんが、工場勤務の従業員が原材料やらを機械にセットして作ってるんじゃないの」
「何を作っているんですか?」
「だから、指で摘まんでるそれだよ、ティッシュ、紙」
「こんなにふわふわしているのに、これが紙だなんて信じられない」
そんな風に感動されても、俺が生まれた時からティッシュはその柔らかさだったから、鳥の羽毛のように柔らかいと聞かされても、その感動に共感できないし、ピンとこない。
六世紀も昔の十五世紀のヨーロッパの紙はそんなに硬かったのか?
カトリーヌは疑問に思う俺をよそにティッシュでレプリカ版『少女の休息』を綺麗に拭き、拭き終えたティッシュ丸めてゴミ箱に捨てるなりテーブルの上に放置するなりなどせず、几帳面に折り畳んでテーブルの上に置いた。
付着した俺の唾の汚れをティッシュで拭いて綺麗になった宝物を嬉しそうに見つめるカトリーヌに、
「その絵、そんなにも大切な宝物なんだな」
「それはそうです。だって、父が十八歳になったばかりの私を自宅の庭で描いてくれたんですから」
『少女の休息』に描かれているカトリーヌは当時十八歳だったと伝えらえているが、本人が口にした年齢と符合したので、その言い伝えは事実だったようだ。
青空と森林を背後にベンチに腰を掛けているその場所については特に伝えられていることはないが、彼女の言葉を信じるのであれば、アンヌ一家の自宅の庭と言うことになる。
自宅はなかなか大自然に囲まれた環境にあったようだ。
「着ているその服も父親から買ってもらったのか?」
問いかけた俺に目もくれずに大切な宝物を見続けるカトリーヌはリボン付きの白いワンピースの上に水色のマントルを羽織っている。
絵画に描かれた服装と同じ服装だ。
「いいえ、これはもともと母の着ていた服です。私が着られるように仕立て直してくれたのも母です」
「母親が仕立て直してくれた服を着ている姿を父親に描いてもらったってことか」
「そうです」
カトリーヌはレプリカ版『少女の休息』を炬燵テーブルに優しく置き、母親が仕立て直した服を何度も愛でるように撫でた。
俺はカトリーヌに自宅でどのような生活をしていたのかを訊こうとして、一旦、質問を噛み殺した。
これからカトリーヌの世話をしていく俺には、誰よりも早く彼女の生涯を知る権利がある。
しかし、頭ごなしに訊き出そうとしても、肝が据わって頭のネジが二、三本吹っ飛んでいる子どもだから、反発して返答を拒絶される恐れがある。
反発心を抱かせないように訊き出すには、と。
「カトリーヌさんにお聞かせ願いたいことがあるのですが、お聞きしてよろしゅうございますか?」
作戦其の一。
まずは炬燵から出て、畳の上に背筋を伸ばして正座し、言葉遣いを改め、御用聞きのような猫なで声で訊き出す。
態度や姿勢、言葉遣いと声のトーンでへりくだりをアピールし、カトリーヌに反発心を抱かせないように気を配る。
プライドを捨ててまでへりくだるのは俺の性分ではないが、こうでもしないと話が前に進まないのは明白だから仕方がない。
国賓級の相手に接客をしているんだ、接客の神髄『おもてなし』を演じているんだ、と思えば、腹の底からふつふつと昇ってくる怒りを多少は抑えることができる。
「え……なんですか、急に?」
カトリーヌが慌ててレプリカ版『少女の休息』を抱き締め、今にでも炬燵から逃げ出す勢いであっても、俺まで慌ててはいけない。
俺はいま国賓級の相手に接客をしているんだ。
接客の神髄『おもてなし』を演じているんだ。
カトリーヌよ、考えるな、感じろ。俺の最高級の接客を。
あっ、いけね、忘れてた。
接客の神髄『おもてなし』にはおもてなしスマイルが必須だ。
「何がおかしくて笑い出したんですか? やっぱり、あなたが怖いですっ」
人の笑顔を見て怖がるとは失敬な奴だなッ。
先日、釣川市主催の月一フリーマーケットで絵を販売していた時、最高の笑顔を振りまいていた俺に捕まった客から、
「あなたの絵よりも笑顔が数倍素敵ですね。その笑顔を買えないのが残念ですけど」
と、褒められたばかりなんだぞッ。
結局、いや、案の定、その客は俺の絵を買ってくれなかったけれどなッ。
「ちッ」
「どうして舌打ちをしたんですか? 私、悪いことを言いましたか? 悟が怖かったから怖いと言っただけですよっ」
いかん。
カトリーヌに反発心だけではなく、恐怖心を抱かせてはマズい。
嫌な出来事を思い出して怒りで強張った頬をマッサージで解し、おもてなしスマイルを作り直してから、作戦其の二を実行する。
「お父様の描かれた『少女の休息』は目にする者全員の心を鷲掴みにする素晴らしい絵画でございますね。審美眼のない私でも、スーパーの野菜詰め放題で完璧に詰め切った時に沸き起こる幸福感に近い心境にさせられる絵画だと思っております」
作戦其の二は、カトリーヌの親父さんが描いた『少女の休息』を兎にも角にも褒めちぎり、カトリーヌに上機嫌になってもらうことを目的とした。
上機嫌になった人は調子に乗って饒舌になる傾向があるし、また、カトリーヌは宝物の『少女の休息』が話に絡むと口が軽くなった気がしたからだ。
宝物を褒めちぎられて上機嫌にならない奴はそうそういない。
「父が描いてくれた絵を褒めてくれて、ありがとうございます。本当に嬉しいです。あの……スーパーの野菜詰め放題ってなんですか?」
俺の自宅のある住宅街の外れでスーパーマーケットのかわつり屋が営業している。
毎週水曜日、かわつり屋で野菜詰め放題が催されるのだが、スーパーの野菜詰め放題はその催し物を指している。
来週の水曜日も催し物に参加して、野菜を安くゲットする予定だ。
「いやいやいや、スーパーの野菜詰め放題なんてお忘れください。いつの日か必ず私めがご案内致します。しかし、本当に素晴らしい絵画でございますね。お父様は素晴らしい絵をお描きになりましたね。お父様はひょっとして画家でいらっしゃったのですか?」
話が本題から逸れそうだったので、おもてなしスマイルをキープしたまま、褒めちぎり作戦で軌道を戻し、最後に巧妙に質問を押し込んだ。
カトリーヌに単刀直入に彼女の生涯について迫る手があったが、急いて事を仕損じるわけにはいかない。
今夜は夜間の駐車場管理のバイトが休みだから、このあとの時間は余るほどある。
ますはじっくりと外堀を埋めながら本丸に迫るほうが最善の手だ。
俺、策士だな。
「はい。私の父は画家でした」
カトリーヌが膝の上に乗せたレプリカ版『少女の休息』に視線を落としながら首肯した。
「ただ、画家としての収入だけでは生活が苦しかったので、母が内職や家事手伝いなどの仕事で収入を得、私たち家族を養ってくれました」
「ご両親ともに働いておられたのですね」
「もし、父が悟のように地位欲、名誉欲、金銭欲に惑わされる人であれば画家として成功し、母は働かずに済んだのかもしれません」
なんで俺の悪口を挟んでくるんだ、と突っ込みそうになり、口から言葉を吐き出さないように奥歯を噛み締めた。
「しかし、誰もが平伏すような地位や名誉があっても、贅沢な生活を送れるほどの収入があったとしても、悟のような汚らわしい人間性を持つ父ではなくてよかったと思います」
だから、どうして俺の悪口を挟むんだ。
噛み締めている奥歯を噛み砕かせたいのか、こいつは。
奥歯が砕け散ったら歯の治療費を請求するぞ。
「今でも家族思いの父を尊敬し、愛しています。もちろん、母も」
言葉の語尾で涙声になり、カトリーヌが顔を伏せた。
泣きたいのは俺のほうだよ。
唐突に俺の悪口を挟まれるし、突っ込みたいのを我慢して奥歯を噛み締めていたら痛くなってきたし。
「とても家族思いのご両親なのですね。カトリーヌさんのご両親に募る思いをお聞きし、ホッカイロで埋め尽くしたように胸が熱くなりました。ポカポカではなくアツアツでございます。それで私からお尋ねしたいことがありまして、そのお尋ねしたいことが核心でありまして、その核心とはカトリーヌさんの生涯についてなのですが……」
外堀を埋めたことだし、ここは一気に本丸に迫ろうとしたが、カトリーヌの様子を見て、奥歯を噛み締めていないのに、言葉が途中で詰まった。
目から上下に長い楕円形の雫が滴り、レプリカ版『少女の休息』に落下しては砕け散ってより小さな雫に分解された。
鼻をすすった時に吸い込んだ空気が吐き出される口が大きく開いている。
両肩と一緒に黒色に近いブラウン色の頭髪が小刻みに揺れている。
泣いてる。
まずい。これはまずいシチュエーションだ。
高校を卒業して以来、肉親以外の女が泣いている場面に遭遇していない。
泣いている女にどう接してやればいいか、まったくわからん。
兎にも角にも、おもてなしスマイルなんてしている場合じゃねぇ。
そして、兎にも角にも声を掛けないと。
「どうされました? どうしました? どうした? 具合でも悪くなったのか?」
俺が呼びかけると、大きく開いていた口が閉じ、震えた唇が言葉を紡ぎ出すように開いた。
でも、声が小さすぎて聞き取れん。
「ごめん、声が小さくて聞き取れんかった。もう一度、聞かせてもらってもいい? 具合が悪い?」
「……たい」
「えっ? 鯛?」
唐突に出てきた、魚の鯛。
意味がさっぱりわからんぞ。
泣いている理由と鯛がどうしても結びつかんぞ。
カトリーヌの唇がまた開く。
「……いたい」
「痛い?」
やっぱり、体の具合が悪くなったんだな。
しかし、泣きながら痛みを訴えるなんて尋常じゃない。
病院に連れていくにせよ救急車を呼ぶにせよ、その前に体のどこがどんな風に痛むのか、症状を訊かないと。
「体のどこが痛いんだ? 擦ったほうがいいのか?」
「……会いたい」
「あ、い、た、い?」
今度ははっきりと聞こえた。
鯛も体の痛みも関係なかった。
「会いたいって、誰に?」
「父さんと母さんに会いたいっ」
カトリーヌが伏せていた顔を上げるや否や、俺にそう叫んだ。
くしゃくしゃになった泣き顔は、両親と離れ離れになって迷子になり、あらん限りの声で泣き叫んでいる幼子の顔のそれと同じだった。
これは本格的にまずいシチュエーションだぞ。
高校を卒業するまでの間に肉親以外の女をからかって泣かせたことはあるが、顔がくしゃくしゃになるまで泣かせたことはないぞ。
その泣かせた女から往復ビンタを食らい、そのはずみで倒れて頭を机に強打し、意識朦朧の状態で保健室に担ぎ込まれたのは、俺の痛い思い出のひとつでもある。
その痛い思い出が蘇って自己防衛の心理が働いたのか、俺は咄嗟に庇うように頬を両手で覆った。
これなら往復ビンタを仕掛けられても頬を防御でき、はずみで倒れて頭を強打せずに済む。
と、安心したのも束の間。
「悟っ。家に帰してっ。父さんと母さんに会せてっ」
カトリーヌが泣き叫びながら頬を覆っている両手の手首を鷲掴みにし、開かない片開きドアを強引に開けようとしてドアノブを押したり引いたりするように押し引きを始めた。
俺の身体が前後に激しく揺れる。
非常にまずいシチュエーションになった。
くしゃくしゃになった少女の泣き顔が鼻先まで行ったり来たりしている。
鷲掴みにされている手首が引っ張られて両手が頬から離れたら、往復ビンタを防ぎきれない。
「泣くなッ。手首から手を離せッ。お前を家に帰したり、両親に会せたりすることなんて俺にはできねえんだよッ」
「嘘を言わないでくださいっ」
「嘘じゃねえってッ」
伝説上の人物が実体を持って現れた事例がないのと同じように、実体を持って現れた人物が再び絵画の中に戻った事例もない。
実体を持って現れた人物は過去に戻ることなく、この二十一世紀の世界のどこかで生涯を閉じている。
つまり、カトリーヌが十五世紀の世界に戻れる確率はゼロに等しい。
「悟っ。どうして目を逸らすんですかっ。目を逸らすのは嘘を吐いている証拠ですっ」
くしゃくしゃになった少女の泣き顔を直視できるわけねえだろッ。
ただでさえ、男は女の涙に弱いんだぞッ。
「嘘じゃねえってッ。お前に嘘を吐いて何の得が俺にあるんだよッ」
「昨日の夜、悟の怒鳴り声が聞こえ、気がつけば私はあの小屋の中にいましたっ」
「へ?」
昨晩、俺の怒鳴り声が聞こえたって?
……あー、思い出した。
昨晩、アトリエ兼物置に飾ったレプリカ版『少女の休息』に酒に酔った勢いで、出て来い、と怒鳴った。
そのあとに直ぐに母家に戻ったので、カトリーヌがアトリエ兼物置に現れたところを目撃していない。
「悟が怒鳴らなければ、私はここにいませんでしたっ。つまり、悟が私を呼んだのですっ。私を呼べたのであれば、自宅に帰し、父さんと母さんに会せることだってできるはずですっ」
「そんな無茶なッ。怒鳴らなければいなかったなんて、ただの言いがかりだッ」
長い間、世界各国の物理学者とか宇宙学者とか大学教授とか頭の賢い学者たちが発足させた多国間の研究チームが絵画から人物が実体を持って現れる現象を研究していた。
しかし、その現象を解明できないまま、数年前に研究チームは解散してしまった。
頭の賢い学者たちが長期間にわたって研究しても解明できなかったんだぞ。
俺の頭をどう使えば、その現象を解明できるってんだ。
「言いがかりではありませんっ。さあ、早く私を家に帰しなさいっ。父さんと母さんに会せなさいっ」
「無理だってッ」
「どうして悟は嘘を吐くんですかっ。私を家に帰させない、父さんと母さんに会せない理由でもあるんですかっ。理由があるのであれば、隠さずにはっきりとおっしゃればよろしいではありませんかっ。私の目を見て、さあ早くっ」
「理由なんてないってッ。隠し事なんてないってッ。本当だってッ」
もう俺まで泣き出したくなってきた。
嘘を吐いていないのに、どうして厳しく詰問されなきゃいけないんだッ。
俺のサイコロの目すべて六のバラ色人生ゲームはどこに行っちまったんだッ。
誰か絵画から人物が実体を持って現れる現象を解明し、カトリーヌに説明してやってくれッ。
泣きたいのを我慢しながら前後に揺さぶられるままだったが、急に俺の手首を鷲掴みにしていたカトリーヌの手がゆっくりと離れた。
「もう、いいです。悟にはお願いしません」
カトリーヌは手の甲で涙を拭うと、炬燵テーブルの上に置いてあったレプリカ版『少女の休息』を手に取って抱き締め、ゆっくりと立ち上がった。
俺はカトリーヌの顔を直視した。
もうカトリーヌは涙を流してはいなかった。
くしゃくしゃだった泣き顔が凛とした顔つきに変わっていた。
その顔つきに、少女というよりは大人、いや、軍人の顔を見た気がした。
これが軍人少女の顔かって思った。
「それ、どういう意味だよ?」
張り詰めた雰囲気を醸し出すカトリーヌに、俺はその雰囲気に圧倒されながら尋ねた。
「言った通りです。悟ではなく別の人にお願いして自宅に帰り、父さんと母さんに会います」
「俺以外にお願いしたって無理だって」
「無理かどうかは私が確認します。悟は邪魔しないでください」
カトリーヌが水色のマントルを翻しながら体ごと半回転させ、玄関に繋がる襖に手を掛けた。
俺はカトリーヌの横顔に向かって、
「だから、無理だってぇの」
「邪魔しないでください」
カトリーヌは引き止めるために伸ばした俺の腕を跳ね除けて、襖を開けて応接間兼茶の間から出て行った。
それから数秒もかからぬうちに玄関のドアの開く音が聞こえた。
速いリズムの革靴の音が遠ざかっていく。
「勝手にしろよ。ドアも締めずに出ていきやがって」
もう知らね。
俺は引き止めたが、それを振り切って勝手に出て行った。
カトリーヌの身に何が起きたって、俺のせいじゃねぇ。
サイコロの目すべて六のバラ色人生ゲームは終わったんだ。
いや、始まってなかったから終わりでもねえか。
そもそも最初からそんな人生ゲームなんて手に入れてなかったんだ。
大金を手に入れることも、画家として歴史に名を残すことも、そんな人生ゲームで叶えようだなんて浅はかだっ……。
「きゃああああああっ」
切り裂くような少女の悲鳴が外から玄関のドアと襖の中途半端に開いた隙間を突進し、俺しかいない応接間兼茶の間に流れ込んだ。
悲鳴を上げたのが家から出て行ったばかりのカトリーヌだというのは、耳にしてすぐにわかった。
様子を見に行くべきか。
いや、引き止めを振り切って勝手に出て行ったのだから、放っておくべきか。
葛藤していると、
「悟、はやく来てくださいっ。早く来てくださいってっ。ねえっ、悟っ」
勝手に出て行ったくせに、気安く俺を連呼しやがって。
「なんなんだよッ、あいつはッ」
靴を履かずに外に飛び出すと、カトリーヌが歩道で尻を地面につけて座り込み、目の前の車道を走行する自動車に怯えていた。
歩道に立ち尽くす俺に気付いたカトリーヌが走行する自動車をいちいち指差しながら、
「悟っ、この高速で動く物体はなんですかっ。なんなんですかっ、この物体はっ。どうしてっ、こんなにも高速でっ、きゃああああああっ」
十五世紀に自動車がなかったからといって、悲鳴を上げるほど驚くことか?
自動車でこんなに驚いていたら、街中に出たらどうなるんだ?
街中には十五世紀には存在していなかった物が溢れているぞ。
駄目だ、こいつ。
やっぱり俺が面倒を見るしかねえや。
(次話に続く)
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