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伝説ではなかった軍人少女、キャンバス上で踊る  作者: あしのクン
売れない画家と伝説ではなかった少女軍人
2/5

売れない画家

 二時間ばかりの朝清掃のバイトを終え、店舗脇に駐輪していた自転車に跨った。

 腕時計を見ると、午前十一時二分。昨日よりも三分早く自転車に跨れた。


 二分前の午前十一時に営業が始まったバイト先の岳田たけだまんぷく食堂を横目に自転車のペダルを踏み込む。

 昼前だというのに十数人の客がぞろぞろと店内に入ってく。

 この時間帯でも十数人単位の客が店内に入っていく光景は珍しくはなく、バイト帰りには必ず目にする何の変哲もない光景だ。


 来店する多くの客の目当ては看板メニューの特製からあげ定食と岳田流ヒレカツ定食で、このふたつのメニューだけで店の運営が成り立っているって店長に教えてもらったことがある。


 そりゃそうでしょうとも。

 他のお店じゃ、あんな肉感ぷりぷりで噛み応え抜群の唐揚げや分厚くて柔らかいヒレカツは食べられませんもん。

 一度でも食べたら誰かを誘って食べたくなる看板メニューの味を堪能すべく、岳田まんぷく食堂のある釣川つりかわ市内からもちろん、市外や県外からわざわざ来るお客さんがいるくらいなんですもん。


 商売繁盛、岳田まんぷく食堂、万歳。

 明日の朝も店に来て、きっちりと清掃して綺麗にしてやるから、存分に油で汚れてくれ。

 汚れていれば汚れているほど、清掃のし甲斐があるってもんだ。


 しかし、もう冬用の作業服から春用の作業服に衣替えしたほうがよさそうだ。

 清掃中、大汗を掻いて濡れた下着の感触が不快感極まりない。

 昨日までは弱々しい春の暖かさが続いていたんで、三月に入って八日目の今日、急に晩春のような陽気になるとは思わず、本当に油断していた。

 明日からは天気予報を確認してバイトに行かないと、同じ過ちを繰り返すことになる。


 ただ、火照った肌を風が冷やしてくれて爽快な気分だ。

 ペダルを漕ぐ速さのギアを上げ、風当りと爽快さを強め、濡れた下着の感触の不快感を紛らわす。


 風圧で伸ばしっぱなしの頭髪が後ろに引っ張られる。

 汗が乾いてぱさぱさになった頭髪が塊になってなびいているのがわかる。

 作業服の衣替えだけじゃなく、頭髪も散髪して春仕様に切り替えるとするか。

 いつも行く千円カットの散髪屋のおばちゃん店員に毎度の如く白髪染めを勧められそうだけど、今回はどうしようかぁ、染め代が掛かるしなぁ。


 普段よりもペダルを漕ぐ速さのギアを上げているので、通勤中に視界に映る街並みが後方へ早く流れていく。


 コンビニコーヒーが美味しいので、たまに飲みに行くコンビニ。

 日用品が安いドラックストア。

 敷地が広めのガソリンスタンド。

 岳田まんぷく食堂でバイトする前に半年間バイトしていた牛丼屋……おっ、まだあいつ働いてたのか、ご苦労さん。

 その牛丼屋の前に三か月間バイトしていたファミレスには、知っている顔はもういなさそうだ。

 美術関連の書籍を立ち読みしたり、買いに行ったりする本屋。

 筆など絵を描くために使うものを買いに行く文房具屋。

 営業を開始して一周年を迎えたシティーホテル。


 商業地域を抜けると、今度は住宅地域。

 公園、不動産会社の店舗の前を通り抜けると、自宅まで住宅が立ち並ぶ。

 賃貸と持ち家、木造と鉄骨造、築歴ちくれきの新中古、平屋に二階建てに三階建て、敷地面積の広狭こうきょうと千差万別の住宅の群れの中に俺の自宅がある。

 木造平屋建てで持ち家の自宅は築歴約半世紀、敷地面積は裏庭にアトリエ兼物置を置けるくらいだから、まあまあ広い敷地面積と言えるだろう。

 自宅の部屋数については十分で、いま使わずに余っている部屋が一部屋ある。


 自宅の門を潜り抜け、玄関脇の駐車スペースに駐車しているオンボロの軽自動車の隣に自転車を止め、家の中に入る。


 段差の高い玄関を上がり、足で踏むとミシミシと軋む音を立てる廊下を進み、壁に貼っている色褪せた火の用心ポスターと買い替えたばかりで艶のある冷蔵庫が対照的な台所を通り過ぎ、脱衣所の隅に置いている中古の洗濯機に作業服、下着、タオル諸々を放り入れてスイッチオン。


 全裸になった俺は汗をシャワーで洗い流すために隣接する風呂場に足を踏み入れる。

 温水のハンドルと冷水のハンドルを調整し、シャワーノズルから出るお湯がいい塩梅の温かさになったのを確認してから、頭からぶっかけた。


 頭髪から指の爪先まで汗が洗い流されていくのが気持ちいいが、足の親指で踏むとカタカタと動く床のタイルが気になる。

 あっ、タイルが剥がれてるじゃねえか。

 この前、別のところのタイルが剥がれたのでタイル用接着剤で養生したばかりなのになぁ……面倒だけど、あとで養生するか。

 養生するのを面倒くさがって剥がれたタイルで怪我したほうが面倒だったし。


 剥がれたタイルで怪我をしないように注意しながら脱衣所に戻り、バスタオルで体を拭いてから向かった先はタンスのある寝室だ。

 色の抜けた畳の上を歩いてタンスから下着、私服を取り出して着替え、タンスの隣の本棚に視線を移した。

 美術関連や投資関連の書籍とは一線を画すように異色を放つ書籍にどうしても目を奪われてしまう。


 俺が手に取った異色の書籍の書籍名は『実体を持って絵画から現れた人物と楽しく暮らそう 初心者向けの家庭編』だ。

 初めて実体を持って絵画から現れた人物と同居することになった人向けの書籍で、初対面の挨拶の仕方、初日から七日間までに良好な人間関係を構築するためのノウハウ、役所への届け出方法、役所実施の健康診断と適性検査の中身など、Q&A形式で説明されている。

 この書物は家庭編だけではなく、シリーズとして職場編なども販売されているが、俺は買わなかった。

 朝清掃のバイトはひとり作業だから、仮にバイト先にいたとしても交流する機会は少ないから読んでも意味がない。


 俺はその書籍を元のスペースに戻そうとしたが、両隣の書籍が『人』という字のようにもたれ合っていたので、なかなか入らない。

 手に持っていた書籍でもたれ合っている両隣の書籍を引き離し、強引にスペースを作って押し込んだ。


 元のスペースに戻ったその書籍を睨みつける。


「結局、買い損、読み損だったか。もう二度と読まねえからな」


 三十六歳の誕生日だった一週間前の夜、俺はWebから伝説の軍人少女と言われているカトリーヌ・アンヌを描いたレプリカ版『少女の休息』の購入手続きを完了させた。

 それが届いたのがその二日後の日曜日だったが、俺はその前日の土曜日に購入し、カトリーヌ・アンヌが実体を持って現れてもいいように何度も再読し、一人二役でシミュレーションを繰り返した。


 しかし、未だに伝説の軍人少女カトリーヌ・アンヌ、現れる兆しなし。

 レプリカ版を飾っているアトリエ兼物置に何度様子を見に行っても、現れる兆しなし。

 昨晩、酒に酔った勢いでレプリカ版に向かって、出て来い、と怒鳴ってみたものの、やっぱり未だに現れる兆しなし。

 もうカトリーヌ・アンヌが現れる可能性はないだろう。


 やっぱり、カトリーヌ・アンヌは伝説上の人物だったんだ。

 これまでの通説通り、伝説上の人物は実体を持って現れることはないのだ。

 あーあ、書籍を買った分のお金と読んだ分の時間を盛大に無駄にしちゃったなぁ、おい。


 いや、それよりもだ、冷蔵庫を買い替えた費用のほうが盛大に痛いぞ。

 ひとり暮らし用小型冷蔵庫ではカトリーヌ・アンヌと同居が始まると不便になると思い、慌てて一般家庭が購入するサイズの冷蔵庫を買ったというのに。

 こんなことになるんなら、買い替えなきゃよかった。

 書籍は千数百円、冷蔵庫は十数万、併せて十数万千数百円。

 その大金、他に何に有効活用できたよ?


 と、いまさら盛大な出費に悔やんでもどうしようもない。

 覆水盆に返らず、支払った大金財布に戻らず、だ。

 伝説上の人物が実体を持って現れる可能性に掛けた俺は馬鹿だった。

 伝説と言われた人物を描いた絵画を販売して大金を手に入れると願った俺は金の亡者だった。

 その絵画で画家として歴史に名を残すと野望を燃やした俺は三日天下の明智光秀だった。

 敵は我が内の欲望にあり。


 これからは心を入れ替えて、地道に絵を描いて販売し、地道に朝清掃と駐車場の夜間管理のバイトに精を出し、給料の一部を投資と貯蓄に回し、身丈にあった人生を歩いて行こう。

 だいたい、三十六歳になって定職に就かずにバイトを掛け持ちし、画家としても知名度が低く、絵が売れない俺に唐突にバラ色の日々が訪れるわけがないじゃないか。

 サイコロの目すべて六が続く人生ゲームを想像するなんて、楽観主義の極みじゃないか。

 いばらの道を歩く日々が続くに決まってるじゃないか。

 歩いて行ってやるさ、遥か先の地平線まで続く茨の道ってやつを。


 そうと決まれば、いつまでも書籍を睨んでいるわけにはいかない。

 今日金曜日の夜は駐車場の夜間管理のバイトがないんで、絵を描くことに時間を多く割くことができる。

 俺はちょっと早めの昼飯をかっ込み、洗濯物を縁側の物干し台に干し、そのまま家と垣根の間の狭い通り道を通り、裏庭のアトリエ兼物置に急ぐ。


 アトリエ兼物置はプレハブ小屋だ。

 母家おもやには寝室として使ってる畳部屋、応接間兼茶の間として使ってる畳部屋のほかに、もうひとつ、何にも使っていない畳部屋がある。

 ブレハブ小屋を購入する前、その空いている畳部屋を改装してアトリエにしたり、物を置いたりする案を親友や後輩から提案されたが、俺は断った。

 物置といっても不要になった物は即処分するので、物品が溢れかえるほどの状態ではないし、絵を描くなら母家以外の環境がいいという俺のこだわりを通したかった。

 そんな俺の反応に親友も後輩も、さもありなんの返答よのぉ、といった溜め息のよく似合う表情を見せ、以後、別の案を提案してくることはなかった。


 アトリエ兼物置で絵を描く作業準備に移ろうとした俺の視界に、壁に飾ったレプリカ版『少女の休息』が飛び込んできた。


 リボン付きの白いワンピースの上に水色のマントルを羽織り、茶色の革製の短靴を履いた両足を交差させたカトリーヌ・アンヌが青空と森林を背後にベンチに腰掛け、肩まで伸びた黒色に近いブラウン色の頭髪に手をやり、頭髪と同じ色の双眸そうぼうをこちらに向け、柔和に微笑んでいる。


 柔和な微笑みといい、軍人としては華奢きゃしゃっぽく見える体躯といい、頭髪に手を当てている可愛げなポーズといい、軍人少女というよりは可憐な少女といったほうが正解だ。


 この絵が描かれた当時、カトリーヌ・アンヌは十八歳だったと伝えられている。

 つまり、俺は昨夜、酒に酔った勢いで十八歳の娘に、出て来い、と怒鳴ったことになる。

 ごめんな、驚いただろ?

 どうせなら、甲冑姿で戦場を駆け巡っている様子を描いた邦題『初陣』、やはり甲冑姿で群衆の声に馬上から応えている様子を描いた邦題『凱旋、戦勝、取り戻した神の栄光』のどちらかのレプリカ版を買って怒鳴ったほうが動揺させなかったかな?

 なんて言い訳しても、カトリーヌ・アンヌは伝説上の人物だから、気に病んでも意味がない。


 意味がないといえば、レプリカ版を壁に飾っておくのも意味がない。

 壁に飾っておいても、そこからカトリーヌ・アンヌはそこから実体を持って現れることはない。

 いつまでも飾っておくのは未練がましい。

 捨てるか。


 台所のゴミ箱に捨てるため、壁から外したレプリカ版を手に持ち、アトリエ兼物置から外に出て、母家と垣根の間の狭い通り道の入り口まで歩いていると、


「あの、すみません」


 と、背後からか細い少女の声が呼び止めてきた。


 俺は一人暮らしだ。

 敷地内に、しかも、裏庭に誰かがいるなんて予想だにしていない。


「おわあああつ」


 隣家に轟くほど絶叫し、その場にへたり込んでしまっても無理はない。


「ごめんなさい! 驚かすつもりはなかったんです!」


 泣きそうな顔をして謝る少女の風貌に見覚えがある

 リボン付きの白いワンピースに水色のマントル、茶色の革製の短靴、肩まで伸びた黒色に近いブラウン色の頭髪、頭髪と同じ色の双眸、実際に目にすると華奢な体躯。


 まさか。


 俺はレプリカ版『少女の休息』に描かれたカトリーヌ・アンヌと、涙目で俺の様子を窺う少女を何度も見比べる。


 間違いなかろう。


 へたり込んだまま、涙目の少女にレプリカ版『少女の休息』を見せつけた。

 少女の目が大きく見開く。


「それは……」


 レプリカ版『少女の休息』を指差した少女の続く言葉を遮るようにして、


「お前、カトリーヌ・アンヌだな?」


 少女は指差したままの格好で体を硬直させた。

 しかし、それも束の間で、コクッと頷いて肩まで伸びた頭髪を揺らした。


「はい。私の名前はカトリーヌ・アンヌですが……あの、その絵は……?」


 やった、やったぞ。

 俺はやってやったぞ。


 カトリーヌ・アンヌは伝説上の人物ではなかった。

 伝説上の人物と言われていたカトリーヌ・アンヌが実体を持って俺の目の前に現れた。


 可能性に掛けた俺は馬鹿ではなかった。

 大金を手に入れると願った俺は金の亡者ではなかった。

 画家として歴史に名を残す野望に燃えた俺は三日天下の明智光秀ではなかった。

 敵は己を信じぬ弱さにありっ。


「あの、その絵はどうされたんですか? ここはどこですか? どうして私はこんなところにいるんですか?」

「サイコロの目すべて六のバラ色人生ゲーム、スターット!」


 俺は胸の奥底から込み上げてくるマグマのような喜びを吐き出すように絶叫し、空に向かってレプリカ版『少女の休息』を放り上げた。


「きゃあっ!」


 俺の絶叫に驚いたカトリーヌ・アンヌの悲鳴が聞こえた後、レプリカ版『少女の休息』が垣根を越えて隣家の壁に衝突したのが見えた。



(次話に続く)

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