息子を独り立ちさせる決断をしました!!
東の聖女?
私はコーヒーの残りを啜りかけた手を止めた。
なんてことだ、聖女が復活したのか――。
私は左目の下にある魔女の紋章を掻きながら、壁の一点を睨んだ。
聖女とは、数百年おきにこの大陸に出現するという、地上最悪の偽善者のことだ。
私たち魔女が使う黒魔法とは真逆、この世界を創造した女神の恩恵である聖属性の白魔法を使う女――当然、聖女を至上の存在として崇め奉る聖女教会のトップとなるべき現人神だ。
その聖女とやらが異端審問官を焚きつけ、魔女狩りを主導しているなら。
私たちの相手は異端審問局ではなく、数百年ぶりに現れた聖女を庇護している、この王国そのものということになる。
「なるほど、これはちょっと厄介な話ね……」
私は二人に訊かれないように呟いた。
私の懸念をよそに、息子二人はぽかんとした顔を見合わせた。
『聖女? ミゲル兄ィ知ってる?』
『いや、知らんな……どこの馬の骨の話だ?』
『きっ、貴様ら! 聖女様を愚弄するのもいい加減に……!』
『ふん、つまり貴様は生かして帰したところで、その聖女とかいう女に魔女のことを告げ口するつもりだということだな?』
上に向けたミゲルの指の動きと同時に、ぎしっ、と、【光槍】が範囲を狭める。
異端審問官は甲高く悲鳴を上げた。
『ミゲル兄ィ、対応はソフトに』
『あぁ、わかってるさ。特別ソフトなひき肉にしてやろう。久しぶりの人間の肉だ、魔女が喜ぶ』
『その肉を焼くのは僕でしょ? 僕は遠慮するぞ。兄ィが焼くの?』
『ちっ、俺はハンバーグを捏ねるのは嫌いなんだ。感覚過敏なんだよ……』
『ひぃ……うぐ……! き、貴様ら、こんなことをしてタダで済むと……!』
『俺の感覚過敏に感謝しろ。貴様は挽き肉にはせん。ただし、このままでも帰さん。特別に記憶の方を挽き肉にしてやろう』
パチン、とミゲルが指を鳴らした途端だった。
はっ――!? と異端審問官の目が左右バラバラに動いたと思った途端、異端審問官が頭を押さえてうずくまった。
『ぐ……! ガッ、ぎゃあああー! な、何を……ギ、ぅあ……!?』
『ただの記憶操作の魔法だよ。ここで見たことは生涯思い出せないようにするだけ、後遺症はないから心配ないよ』
ニコルの丁寧な説明も、最後までは聞こえてはいなかっただろう。
何しろ今、異端審問官は脳みそを直接手で捏ねられるような、想像を絶する不快感を味わっているはずだ。
結局、ガクガクと痙攣した異端審問官はひとしきり絶叫した後、ぷっつりと糸が切れたかのように脱力すると、白目を剥いて仰向けに倒れ、気絶してしまった。
「ご苦労、二人とも。さぁ、その男たちを聖女とかいうアバズレ女のところに送り返してやんな」
『了解。――【天窓転移】!』
ニコルが言うと、男だけでなく、二十人程の村人たちまでもが全員、フィルムのコマ落としのように消失した。
今頃、聖女は私からの痛烈な宣戦布告を受け取り、美しい顔を歪めて歯ぎしりすることになるだろう。
『ママ、終わったけどどうする?』
「あぁ、戻ってきていいよ。戻ってくる間に料理は温め直しといてやる」
『申し訳ございませんアシュタヤ様』
その言葉を最後に、私は感知魔法を切った。
人差し指をサッと一振りし、料理が冷めて固くなる前の時間に戻してやる。
私は今までただの一度も、彼らに冷たい食事を食べさせたことはないつもりだ。
育児の基本は食事、つまりこれは一種の食育である。
彼らが帰ってくる間に、足を組んで私は考えた。
聖女がバックについているとなると、これはちと派手な喧嘩になるだろう。
もしかしたら、この私でさえ聖女には力づくでは敵わないかも知れない。
それに――私は母親としての頭で考える。
息子たちはもう二十歳、独り立ちするにはいい年齢だと、私だって思う。
流石に少し、迷ってしまった。
迷ったが、どうにも選択肢はなさそうだ。
気弱なため息を押し殺し、私は家の隅っこに置かれた金庫から、「その時」のためにあらかじめ作ってあった薬の小瓶を取り出した。
◆
「ママ、ただいま!」
「あぁおかえんなさい。悪いわね、面倒なこと頼んじゃって」
「こんなことでよければいつでもお申し付けください」
そう言って柔和に微笑んでくる息子たちを見て、私も笑い返した。
「さぁ、食事の残り食べちゃいなさい。後片付けは私がするから」
「あーお腹減った! いただきます!」
「ふむ、やっと食事にありつける」
まるで子供に戻ったかのようにハグハグと料理を食べる息子たち。
大きくなった、二人とも。
本当に――。
しばらくその顔を見て、頃合いを見計らった私は、意を決して言った。
「アンタたちは本当に大きくなった。もうアンタたちに私の力は必要ない。どこにでも行って、好きに生きな」
その言葉に、二人が同時に食事の手を止めた。
「えっ、ママ――?」
「アシュタヤ様?」
「アンタたちには聖女のことは教えてなかったわね。東の聖女は地上最悪のアバズレだけど、力は本物なの。私の事情にアンタたちまで巻き込むわけにはいかないのよ。だから――わかって」
その瞬間、ミゲルがはっとした表情を浮かべて私を凝視した。
「まさか――アシュタヤ様!?」
「安心しろ、樒の毒をちょっと弄ってあるだけ。すぐに身体は動くようになる。ただ、吐き出してももう意味はないわ」
言い終わらないうちに、ニコルが苦しげに唸り声を上げ、目玉焼きに顔を押し付けた。
壮絶な麻痺毒にミゲルは必死になって抗おうとしていたが、私のマル秘レシピである樒の毒はミゲルの浄化魔法をもってしても簡単には浄化できない。
やがて力負けしたようにミゲルもゆっくりと項垂れ、最後には机に突っ伏した。
二人の体から完全に力が抜けたことを確認して。
私は可能な限り怖い顔と声で恫喝した。
「最後に言っておく。私を追ってきたら殺す」
その言葉だけは――本気だった。
「容赦も手加減も一切しない。全力で殺す。偶然視界に入っても同じこと。アンタたちにできることは、《樒の魔女》の一切を忘れ、二度と私に出会うことがないように祈りながら生きること――いいわね?」
それだけ言って、私は立ち上がった。
食事が終わった自分の食器だけは、丁寧に洗って水気を切った。
外套を羽織り、帽子を被って、杖を手に持ち。
さてどうしようと振り返った。
なにか持っていこうと思ったが、この家のものはできるだけ彼らに残していきたかった。
それに、大半が三人での思い出が染み付いたものだ。
この食器も。
ボロボロの魔導書も。
ヤニがこびりついた薬瓶も。
焦げ付いた大鍋も。
三人で撮った念写絵も。
全てが、かけがえのない思い出ばかり。
彼らから離れようとする私の脚を重くさせるものばかりだった。
結局、私は何も持たずに家を出ることにした。
振り返ることなくドアまで歩いて、後ろ手にドアを閉めた。
がちゃん、とドアを閉めた音が聞こえた途端。
がちゃん。
頭のどこかで同じ音が鳴って、それと同時に、いろいろな思いが溢れ出てきて止まらなくなった。
「――おいおい、情けないぞアシュタヤ。たかがキープ君を二人、切るだけだろ?」
私は私に向かって言った。
「泣くのなんて何世紀ぶりだよ。もう忘れたろ泣き方なんて。化粧も崩れる、目も腫れるぞ、みっともないからよせよ、おーい」
私は歯を食いしばった。
その事実そのものを拒否するように、私は下を向いた。
「よせよ、似合わないんだよ、悲しくないだろ。非常食がいなくなるだけなんだよ……」
そう、非常食がなくなるだけ。
それだけなのに――。
「そうだろ、オイ。やめろよ、泣くなよぉっ――!」
俯いた私の目から、涙は後から後から溢れて止まらなくなった。
つくづく私は――本当にダメな母親だ。
そう思うとますます悲しくなって、悔しくなって、私は杖に縋りながらズルズルとその場にしゃがみ込んだ。
この十七年。
彼らと過ごした十七年。
そこを、自分は振り切っていかなければならない。
それが母親としてできる最後のことなのに。
私の身体が、心が、それを全力で拒否している。
もっと彼らと一緒にいたかった、そう言っている。
この十七年で、私はすっかり、腑抜けになっていたようだ。
十分近くも、涙は止まってくれなかった。
頃合いを見計らって――ぐしっ、と、私は力任せに服の袖で顔を拭った。
マスカラもアイシャドウもつけまつげもみんな取れて、ものすごい顔になっているだろう。
でもいい、いいんだこれで。
どうせみっともなく泣いてるんだ。
どうせ息子たちの独り立ちを嫌がる情けない母親なのだ。
もっとみっともなく、みじめな顔になればいい。
私は必死になって深呼吸を繰り返し、どうにか嗚咽だけは押し留めた。
よし、歩いていける。
かなり無理をして決意し、一歩を踏み出した。
魔女が徒歩で移動――これほど間抜けなことはない。
だが私は、空飛ぶ箒も、空間転移魔法も使わないと決めていた。
使えば探知魔法により、息子たちに居場所が呆気なくバレる。
脅しても、拒絶しても。
呪っても怒っても叱っても怒鳴っても哀願しても。
きっと、彼らは私を追ってくるから。
だから――魔法は使えない。
私は母親として、徒歩で彼らから離れなければならない。
しばらくのしのしと歩いた私は。
ふと、森の出口にいた人物を見て――はっ、と息を呑んで、茫然自失になった。
「遅いよママ。――え、なんで徒歩なの?」
「えぇ……? アシュタヤ様、物凄いお顔になってますよ。まさか泣いておられたのですか?」
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