撤退
「とりま、逃げよっか」
鈴谷の生首を見て。
俺の反応を見てから上機嫌になったアイツが去っていって。
ベッドの上で呆然とする俺の前に唐突に現れた蝶野は、そう言って片手を差し伸べた。
「逃げ、る……?」
「そ。鈴谷ちゃんがああなって、ユータは攻め手を失った。なら、一旦体勢を立て直すべき」
蝶野は鈴谷の生首を指差さす。
最後は防がれたものの、確かにアイツの能力を切り裂くことができた少女。俺が得た矛は、ほんの数時間で失われた。
──逃げる。
それは俺が今まで持つことがなかった選択肢。考えたこともなかった。逃げることは許されないこと。俺はアイツを殺さなければならないのだから。アイツの傍にずっといなければならないのだから。
しかし、今はどうだ?
蝶野という存在がいる。体勢を立て直す、という言い方をしている以上は、単に逃げ隠れるのではなく、何か策があるのだろう。逃げずに何が出来るかといえば、きっとバットを振り下ろすだけになる。馬鹿正直に繰り返すだけで、そこには策も何も有りはしない。
それは殺意という名ばかりの自己満足、或いは自己欺瞞があるだけだ。
何かしらの方策が得られるのであれば、蝶野の誘いに乗るのがきっと正しい。けれど。けれども。当然ながらそれはアイツの傍を離れるということ。アイツを放っておくということ。このままでは何も成し得ることなど出来ないというのに、そうして良いのか、と内なる自分が訴えかける。
「足踏みしてても何も変わらないよ?」
足踏み。俺がしているのは足踏みなのか。
言うまでもない。先程、自分で思った通りだ。俺は何をしたい。アイツを殺したい。なら、この誘いに乗るべきだ。
なのに何故、直ぐに返答できないのか。何故、肯定も否定も出来ないのか。意味が分からない。ここに残っても何もない。目的に手を伸ばすことなく、ただ乞い願う思考停止した愚者に成り果てるだけ。
俺の心の内に何かがある。それが逃げるという選択肢を拒んでいる。それは何だ。
「…………」
馬鹿げている。全くもって馬鹿げている。そんな馬鹿なことがあってたまるか。
目的はなんだ。何を成したい。殺したい。殺したいのだ。そうだとも、胸中には殺意しかない。自問自答しても、当然、それしか返ってこない。俺の心にあるのは、殺意。ならば、逃げることを否とするナニカも殺意に由来するもの。それはなんだ。
──もう、止めだ。
これ以上の思考に意味は無い。堂々巡りをするだけ。姿の見えないナニカを明確にすることに意味など無い。意味を持つのは、思考よりも行動。ならば、結論は一つ。
「……そうだな、体勢を立て直す。アイツを殺すために」
逃げる、とは言わなかった。
「おっけー。それじゃ、ちょっと失礼」
「なっ……!?」
所謂、お姫様だっこをされた。
「降ろせ!」
「ゆゆゆゆゆゆゆユータの体温!! ユータの感触ぅ!! あっあっあっあっあっあっ」
俺を抱き上げるなり、蝶野は白目を剥いた。小刻みに体を痙攣させて口端から涎を垂らしている。
「早く降ろせっ!!」
それが余りに気持ち悪く、そもそもお姫様だっこされている意味も分からずに抵抗するが、俺を抱き上げる手を振り払うことが出来なかった。じたばたと暴れても蝶野は動じることなく、寧ろよりしっかりと体を引き寄せられるだけに終わる。
「やばー、意識飛んでたわ。……よいしょっと」
程なくして蝶野は飛んできた意識を戻したようで、俺の抵抗など意に介することなく両手が塞がった状態のまま器用に大蜘蛛の背に跨った。
そこに来て漸く、こんな騒ぎを起こせばアイツが気づかない訳がないと部屋の入口を見るが、外にでも出ているのか姿を現す様子はなかった。
「どしたん?」
部屋の入口を気にする俺の様子に蝶野は不思議そうに首を傾げる。そんなことは気にしていないようだったが、こいつの存在をアイツは認識できないのだから、当然なのかもしれない。
「んじゃ、いっくよー。紅ちゃん、ごー!!」
「……っっ!!」
気の抜けた掛け声と共に蜘蛛は外に向けて跳ぶ。外に向けて、とは言っても目の前は 当然壁。反射的に目を瞑り両腕を顔の前で交差させるが、来るべきはずの衝撃は、なかった。目を開けると抱えられた俺の体は、既に外へと出ていた。
「ふふん。ワタシが触れてれば、ユータも紅ちゃんの能力の対象内。今のユータの体は、世界の理の外側。だから壁なんて意味ないのだー」
蝶野は、悪戯の成功した子供のような笑みを浮かべていた。殴りたい気持ちになるが、蜘蛛が目の前の障害物を気にせず飛び跳ねながら移動しており、目まぐるしく切り替わる景色から振り落とされないよう、不本意、本当に不本意ながらも蝶野に抱き上げられたままでいるしかなかった。せめてもの抵抗に、蝶野の方は見ない。
「これが愛の逃避行ってやつー?」
しかし、蝶野が笑顔を浮かべていることは明白で苛立ちは募る。
「ふんふんふーん」
気の抜けた鼻歌。
同級生の少女にお姫様だっこされている情けない現状思うと、俺の苛立ちは霧散せざるを得ず、只々溜息を零すしかなかった。
▼
「ごめんごめん! 首、置きっぱなしに……あれ? お兄ちゃん?」
リビングに戻った私は、暫くしてお兄ちゃんの部屋に血生臭く穢れた物体を置いたままにしていたことに気付き、回収するために部屋へと戻ったが、其処にはぽつんと置かれた生首があるだけ。愛するお兄ちゃんの姿は何処にもない。
いつの間にか外に出たのだろうか。先程から数分程度しか経っておらず、加えて玄関に行く為には必ずリビング通らなければいけないのだから、私がそれに気付かない訳がない。
とはいえ、お兄ちゃんから発せられる匂いを感じられないのだから、この部屋にいないのは確実。
「んー……居ない、か」
くんくんと改めて匂いを嗅いでみるが、この家の中にいないのは間違いなさそうだった。
「まいっか。……ダーイブっ!!」
その内、戻ってくるだろう。お兄ちゃんが憎き私から離れる訳がないのだから。
とりあえず、さっきまでお兄ちゃんが寝ていたベッドへと飛び込んで布団を被った。全身がお兄ちゃんの匂いに包まれて、これ以上はないほどの多幸感に浸る。早くも濡れてすらいる。
「…………ん?」
知らない臭いが混じっている気がした。女の臭い、な気がする。
布団を体に巻き付けてベッドから出るが、もうその臭いはしない。この生首から出ているものだろうか。
「うぇ」
近付いて鼻を動かし、女と血錆が混じった悪臭に舌先を出して顔を顰める。血がその殆どを占めていて、女の臭いは判然としない。先程のものと同じかもよく分からない。
「あっ! これはっ……!!」
お兄ちゃんの髪の毛が床に落ちている事に気付き、我ながら俊敏な動きでそれを拾った。これは、きっと。私は躊躇無く、それを食べた。
間違いない。
この味わいは抜けたて。
私の愛を知るお兄ちゃんは、それはもう徹底的に掃除をする為に、これ程に新鮮なものはなかなか手に入らない。
嗅覚だけではなく味覚も多幸感に包まれ、私を魅了して止まないお兄ちゃんへと想いを馳せる。
愚かな私は、気付けなかった。
──想いの先が、その瞬間にも遠ざかっているということに。




