第66話 ニンフェル市街
売店でエールとホットドッグを買い、親爺さんに届けた。店員に聞いたところ、ここはニンフェルという都市だった。聞いたことがない。ヤズデギルドは、恐らく新たに生成された場所で、自分たちがここから出れば消えるのではないかと考えた。
だが、それでは自分たちの意識が、世界に影響を与えているようではないか。
「そうだ。人の意識は、世界に影響を与える。それは形を歪め、新たな領域を生む。誰でも知ってるけど、すぐに忘れてしまう事実だ。例えばさっきの親爺さんは、あの食いものと酒を味わってる間は、オレたちに感謝するだろうが、食い終えたらすぐに忘れちまうだろう。そしてオレたちも、彼のことを忘れる。そこでオレたちと彼の世界は分岐し、二度と交わらない。仮に後で再会したとしても、それは分岐した後の存在、さっきの親爺さんとは別の人物だ。フュルギアの座員と同じってわけだ。
なあアメリア、お前が失った記憶はきっと、とても恐ろしいものだ、座長が忌避するのも当然のおぞましい現実だ。北へは行かない方がいいのかも知れないぜ。むしろ、あの灰色の影のほうがお前の敵対者なのかもな。汚穢に塗れた自分に出会うのは、誰にとっても――いいや、それも含めての、放浪か」
地下鉄駅から地上に出たが、ニンフェル市街は猥雑で汚らわしかった。バカン王国は――少なくともこの場所は、現実のバカンをもとに生成されたはずだ――イーグロン大陸のどの場所とも似ていない。富の女神ブラニアを主神とし、盗賊じみた貪婪な豪商たちと、彼らとほとんど同一の高僧たち、原色を排した正装を纏う気取った迷宮守りたち。立ち並ぶ高楼。乱立する線路と道路、そこをゆきかう列車と自動車。ニンフェルもまた、そういった特徴を有していたが、加えて生々しい死の臭いがした。
闇市場だという看板を出しているも同然の、いかがわしい雰囲気が漂う市場では、得体の知れない臓物やガラクタなど、ゴミとしか思えないものばかりが公然と売られている。市内を我が物顔で巨大な蟲の魔物が闊歩していて、そいつらは別段市民を襲ったりはしない――と思いきや、突如として牙を剥いたりする。警備兵は緩慢に現れて、犠牲を出しつつ討伐する。貪欲な死体漁りが群がって魔物や犠牲者の遺体をあっという間に回収し、どこかで売り捌く。それのみならず、まだ生きている市民に手を出す者もいる。ナイフが背中に刺さったままの生暖かい亡骸を担ぎながら、彼らは悠々と列をなす。
バカンの大抵の都市では冷たい鉄の香りがするものだが、ここは明確に甘ったるい腐敗臭が入り混じっている。知らぬ間に日が落ち、大気は涼しさとその臭いを増しつつある。
曲がり角でグンルは、一人の騎士とぶつかった。がっしりとした壮年のドヴェルで、ずいぶん慌てていた。
「おっと、すまぬなお嬢さん。この円卓の騎士ミョルニルともあろう者が――」その言葉通り、彼の身に付けているサーコートには〈円と竜の紋章〉があった。「いかん、このままでは出場受付が終わってしまう! あの東の地の迷宮都市が我が物となる機会、逃すわけにはいかぬ!」
騎士は駆けて行った。ヤズデギルドは呆れたように口走る、
「なんだって? まさかドリフターズレック――まだそう呼ばれてはいないだろうけど――が手に入るっていうのか、何かの大会の商品として? 大盤振る舞いどころの話じゃねぇな。とにかく、あの騎士の後を追うか」




