第36話 塩水童子
暗闇の中、群衆の影だけが水音を立てながら動いている。この海水で輜重兵スワロウテイルの潜んでいる穴も浸水するのではないかと不安になった。放浪の途中で宿が見つからず、空腹を抱えているときに彼女がいれば助けになるので、あまり溺死などはして欲しくない所だ。
「それについては問題ない……スワロウテイルは死んだ後で座員になったのでもう死ぬことはない」ドルシネアが現れて言った。足元からはブクブクと泡立つ音がする。本人が問題ないと言っているのだ。
「ちなみにワタシを含めた座員はもし死んでもしばらくすると復活する……我々は全員〈潜界存在〉と化しているので」
それはどうやらエノーウェンと重なっている別の世界の住民という意味で、これはルネッタが言っていたように、複数の異世界との衝突・融合を繰り返した結果生まれたものらしい。重なり合ってはいるが同一の世界というわけではなく、ここにいるわけではないのだが、いないというわけでもない、などとドルシネアは曖昧な言葉を放つ。
「現実の記録者としてなるべく分かりやすい記述をしたいとワタシは思う……けれど現実は分かりやすくない、グンルなら知っていると思うけれど」
〈潜界存在〉はカルネアデスが所持する魔剣〈白波〉を連想する、それもまた、使用者をそこにいるが同時にいないという状態に置く。もしかすると〈白波〉は使い手を一時的に〈潜界存在〉と化しているのではないだろうか。
「さあ、そうかも知れねぇが、たぶんちゃんとした研究機関とかで見てもらわなきゃはっきりとはしねぇだろうな。どうせ盗品の疑いをかけられそうだから、一生やろうとは思わねぇが」
話しているうちにルネッタは突如立ち上がり、群衆の一人を刺殺した。その人物が海水に倒れ込むと消失し、すぐに水も引いた。市民の一人に化けていた魔物を、嗅覚か何かで判別したようだ。
「狩りで大物を仕留めたときはその肉を我が〈頭目〉へ捧げなければならないが、此度の敵は肉を持たず、また大物でもなかった。この魔石は貴公に差し上げよう」
思いがけず収入が転がり込んで来た。宿泊費と酒代のたしにはなるだろう。そして気づくと、ルネッタの姿が粉々に砕かれ宙を漂っている。勝手に一座に加えられた、あるいは本人が望んで加わったようだ。それを祝うために、グンルは近くの酒場に滑り込んで――もちろんそこも真っ暗だ――メニューの一番上に記載されている酒を、ろくに見もせずに指差した。




