第10話 濁り渡りのネンボ
その迷宮守りは〈ネンボ〉と呼ばれていた。これは大陸西部の言葉で〈雲〉を意味し、風生まれの男性の名としてしばしば見られる。もしかすると人間でいうところの〈ヌミトル〉、エルフの〈オベロン〉のように、大昔の英雄や君主の名かも知れない。
迷宮守りは偽名や通称名を多用する。それはエルフの、真名を秘匿し纏名を用いる、魔術的防護の風習にも似ていた。エルフたちは己の魂魄を保護するために、植物や動物、普遍的に知られる英雄の名を纏うが、迷宮守りたちはそうした意図よりもむしろ、怪しげな素性を隠したり、平凡極まる身分をいわくありげなものに見せたりすることが狙いだった。
同じ名前の持ち主が同じ公社支部で活動するのは紛らわしいので、大抵は通称名にさらにあだ名や出身地を重ねることになった。この、巨大な生き物を随伴する風生まれは、〈濁り渡りのネンボ〉を名乗っていた。
多くの迷宮公社支部は飲食店、酒場、宿などが併設されており、ネンボはそこで食事をしている。海老の入った焼き飯を山盛りにして食べているところだ。
グンルは彼に近づき、少し尋ねたいことがあるが構わないか、と聞いた。
「ああ、いいよ。僕が答えられることならね」
あの空に浮かんでいるものが、あなたの随伴者というのは本当か。
「そうだよ、特に何をするでもないけど、上を見るとそこにいるってわけさ。僕の迷宮病の症状ってわけだね。あれについて僕が知っていることは、実際の所ほとんどない」
あなたは風の神マルゴルの信徒か。
「いや、そういうわけじゃない、旅先でマルゴルの像があれば祈るくらいはするけれど、僕はダグローラの信徒だ。マルゴルは風生まれに何らの祝福をも与えはしないんだ。それでも構わないっていう信徒はいるけれど、僕はそこまでの信心はない」
自分はマルゴルによって〈最果てへの途路〉を辿る定めを与えられた。それについて何か知っていることはあるだろうか。
「何だいそれって……〈最果て〉っていうのは風生まれが追放されたっていう〈楽園〉がある場所のことかな、それについて、一般に流布する伝説以上のことは、僕は知らないな。ちゃんとしたマルゴルの信徒ならご存じかも知れないけれど、彼らは教会とか、そういう拠点を持たないんだ。教義でそういうのは持つなって言われてるからね。もともと帝国の遊牧民とかが信仰してた神様だから。それと僕ら風生まれとか、いろんな地方の旅人の民間信仰とかが習合されてできたのが、今のマルゴルって神様なんだ……ところで、その定めってのはどうやって気づいたんだい」
自分にだけ見える幻覚が教えてくれた。
「うーん、そうか。じゃあその幻覚の度合いというか深度というか、それを強めるのも手かも知れないな。強めの酒でも飲んだら――ああ、ドヴェルだったら言われなくても飲んでるかな?」




