第3話 真意はどこに
「あっ、おい芹那——!?」
入学式と簡単なガイダンスだけで解散となった高校初日の帰り道。
相変わらず擦り寄ってきていた芹那は、我が家が近くなり、周囲に人がいないと見るや否や俺の腕を振り払うように投げ捨てて駆け出してしまう。
呼びかけてもこちらを振り向くことなく、完全に無視された。
「なんなんだよ……」
まぁ、おそらく先に家へ帰ったのだろう。
ようやく自由になった左手で頭を掻きつつ、俺は芹那を追いかけた。
「あ゛〜! あ゛〜! あぁ゛〜〜〜〜!!」
リビングでは思いがけない光景が広がっていた。
普段は常に冷静沈着で取り乱すところすらほとんど見たことがない幼馴染が、ソファーに身を投げ出し、顔をクッションにぐりぐりと押し付け、はしたなく足をバタバタさせながら言葉にならない叫び声をあげていた。
「どしたん……せり————小鳥居」
おそらく、今は苗字呼びが正しい。
「うるさいです。どっかいってください。それか死んでください」
「いやここ俺の家だし死なないが……」
やはりここにいる許嫁は、奇声をあげてはいるものの、いつもの許嫁だ。
実のところ俺は学校でのあれが、許嫁である彼女の偽らざる本当の気持ちだとか、許嫁としての自覚が芽生えたのだとか、そういうものじゃなく、単なる演技だということを知っていた。
目を瞑って、ゆっくりと、一回限りの深呼吸。
もう一度瞳を開いたとき、そこには普段の彼女と異なるモノが宿っている。
それは中学まで演劇部に所属していた彼女が演技前に必ず行うルーティンであり、切り替えのスイッチだったから。
「……あれはどういうことだ?」
「理央には関係ありません」
「めちゃくちゃあるんですが。このままじゃお友達できる気がしないんですが」
今日一日だけで、俺と芹那はセットととしてクラスメイトから認識されたことだろう。
1部の男子からは完全に敵扱いだ。
見事な高校デビュー失敗だよ。
ラブラブな許嫁がいるように見えて、家ではこの通りの塩だし。
「いいじゃないですか。理央は孤独がお似合いです」
「2年前なら良かったけど、もうそのお年頃は卒業したんだ。ふつうに友達ほしい」
孤高な自分カッケーの時代はもう終わった。
「一生厨二がお似合いです」
「そんな恥ずかしいやつが許嫁でいいんですかね……」
このままじゃ話は平行線だ。
俺はむりやり、芹那が寝転がるソファーの端に腰を下ろす。
「べつに怒ってるわけじゃない。ただ、理由があるなら知りたいってだけ」
「……嫌です」
「そこをなんとか。このとーり」
両手を合わせて頼み込む。
芹那は横目にこちらをちらちらと見ていた。やがてふんと鼻を鳴らすと起き上がって、クッションを抱きしめながら膝を折りたたんで隣に座り込む。
「……告白」
「は?」
「……理央、告白されてましたよね。中学の卒業式で」
「見てたのかよ……」
たしかに卒業式の日、俺は他の高校へ進学する同級生から告白された。俺の人生において珍しすぎるくらいの甘酸っぱいイベントだ。
「偶然ですよ。本当にたまたま偶然居合わせただけ。勘違いしないでください」
横目に見た芹那は居た堪れないような表情で、まるで拗ねているかのようにも見えた。
「……理央は、私と結婚するんでしょう?」
絞り出すような震え声。
「理央は私と結婚するんです。だから、他の女の子が理央を好きになる必要はありません。どうせ振られるのに、そんなの可哀想ですから」
現に、告白してくれた女の子は泣いていた。
俺の答えがその結末を呼んだというのに、なぜか胸がすごく苦しくなったのを覚えている。あの痛みはきっと、ずっと忘れられない。
「だから私は、こうするしかないんです」
ああ、その感情は分からなくもない。
俺のことなんてこれ以上他に好きになってくれる女の子がいるとも思わないが、そもそもそんな女の子が存在する意味がない。
それは紛れもない事実だ。
しかし、そうだと言うのなら——
「芹那はもしかして、許嫁として、俺と結婚したいのか?」
そんなわけがない。
今朝も否定されたばかりだ。
答えはわかりきっているのに、聞いてしまう。
「したくない。したいわけないです。自惚れるのも大概にしてください。許嫁? 親が決めた結婚? くだらない。そんなの……一度だって心から前向きに検討したことはありませんよ」
「……そっか」
「今朝も言ったでしょう。私はただ、お義父さんたちへの恩義に報いるだけなんです」
「そっか」
やはり答えは変わらなかった。
しかしもう一つだけ、言ってやりたいことがある。
「……じゃあなんで、そんなに顔が赤いんだよ」
「…………〜〜っ!?」
この会話の最初から最後まで、芹那の顔は熟れたリンゴのように真っ赤に染まっていた。
もっと言えば演技であったはずの学校でも、俺の腕を取るたびに、甘い言葉を囁くたびに、その頬はわずかな赤みがさすのを隠しきれず、ぎこちなさが増していった。
初対面のクラスメイトたちには決してわからない完璧に近い演技だっただろうが、ずっと見てきた俺にはそれがわかった。
今日の演技がもしステージで行うものであったなら、それは落第点であったと言わざるをえない。
「……バカ」
「わっ」
クッションを顔に押し付けられる。
「理央のバカ。バカ。バカ。バカ。バカ」
「ちょ、やめろってっ。いたいってっ」
ぼすんぼすんと何度もクッションが打ち付けられる。
「うるさいバカっ。理央なんて、もう死んじゃえばいいんですっ。それでぜんぶ、解決! 死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね……!」
「おいクッション、押し付けんな、息、できなっ、できないからぁ!?」
しばらくの間、芹那による死ね死ね攻撃は終わらなかった。