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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ラストスプリング

作者: 若野路


 春は一人、いかにもよくわかっていますという表情で熱心に美術館に飾られている絵を眺めていた。


 春がどれだけ見つめても絵はただの絵だった。布や針金で作られた何かは意味不明な造形物でしかなく、漠然としたそれらに、春は意味も価値も見出すことができないでいる。

 お金を払ってまで観るようなものとは思えず、周囲にいる人々がいったいここに何を求めてきているのか春には見当もつかなかった。


 しかたない、私は芸術とは無縁の人間だから。


 小さく息を吐けば、背筋が少し丸くなった。

 学生時代、美術の時間は友達とのおしゃべりの時間だった。絵の才能は皆無で、それ以外の時間に芸術を知ると言っても、受験勉強で名画の名前と作者を覚えたくらいだ。

 技術的なこともさっぱりで、そっくりな絵を描くなら最初から写真で撮ればいいと思っている。きれいに描かれた絵はすごいと思うけれど、それ以上何か感じるということもなかった。

 抽象画なんて子供の落書きみたいにしか見えず、画家と言われて思い浮かぶのはゴッホとピカソくらい。


 たくさん絵をみればだんだんと作品に隠された意味やそのおもしろさが分かるのかと思っていたけれど、なんてことはない、絵は絵のままだった。

 ただ見たことのある絵が増えて、聞いたことのある芸術家が増えた。

 それでも春は訳もわからず高い金を払って、何年も美術館に通っていた。


 白い大きなリボンのついたブラウスに、くすみがかったグレーのワンピースを重ね着て、今日も春は美術館にいた。

 かつての友人にかわいいと褒められた服で、たぶんもう似合っていない服だった。


 巨大な絵から視線を外して、春はゆっくりと移動していく。隣の絵もさっきと同じ大きさの絵だった。大きな絵には絵の具が散らばっている。

 これが彼女が見ていた世界なのだろうかと春は思う。

 どんな世界なのかは見当もつかないけれど、こんなふうに世界が見えているとしたら、私の世界はなんてくだらないのだろうと春は少し羨ましく思った。


 歩くたび響く靴音に、靴を間違えたと思った。移動して一枚、また一枚と解説を読んで、眺めて、春は腰が痛いなあと思いながら辛抱強く見つめた。


 青、緑、黄色、青、白。目の前をピンクの髪が通りすぎた。視線はその髪の方へ移り、かわいいなと思ってから、いけないと首を振る。


 絵に集中しなければ。


 この世にはイラストや絵があふれていて、道端のオブジェやおしゃれなカフェ、ポスター、大看板、音楽、映像、建築、こういうものも芸術と呼ぶらしい。だとしたら芸術は東京の大部分を占めている。芸術は世界を構成し、そしてまた飽和している。

 けれど芸術がありふれた存在だとしても、やっぱり春にとっては遠く、理解できないものだった。


 だからこそ、理解したかったのだけれど。

 春は凝り固まっていた背筋をぐっと伸ばし、物販物に目を向けることなく美術館を後にした。



 美術館の外へ出ると足は何を考えるまでもなく自然と動いて、気がつくと春は見慣れたコンビニの前にいた。

 入り口でぼんやりとする春を不審そうに見つめながらサラリーマンが通っていく。軽快な音楽と共に店員の声が響いた。

 少し迷ってから春は缶ビールと檸檬サワー、それからサンドイッチを買って公園に向かった。




 ゴールデンウィーク開け、梅雨入り前の休日の公園はひどく混んでいた。

 空は雲一つない、白に近い青をした高い空が広がっている。太陽は夏ほどの強烈さも冬ほどの冷たさもないけれど、じっと陽の光を浴びているとだんだん太陽が煩わしくなってくる程度には熱を帯びていた。

 散った桜の花の代わりに青々とした緑が公園に茂り、子供の甲高い歓声が絶えることなく響いていた。

 春は芝生の上に座りながら缶ビールを開け、冷えたアルコールを体内に流し込んだ。



 春が美術館に通い続けている理由は好きだった人が芸術を愛していたから、それだけだった。

 友達に連れていかれた先にいたその人は異質で、出会った瞬間から春にとっての特別になった。


 見た目はありふれていた。だけどそれがひどく変で、奇妙に見えた。着ぐるみをかぶって生きているみたいに何もかもが不釣り合いで似合っていなかった。

 そのいびつさが、ひどく危うい美しさのように春には思えた。


 「小宮千春です」


 声と名前も見た目に似合った、ごくふつうのありふれた女の子だった。だけど彼女は退屈そうに、とても面倒そうに名前を言って、それ以外は何も言わずにその場から消えた。

 誰も気にしなかった。そういう奴なんだと友達は笑った。


 彼女はめちゃくちゃな人だった。

 いつも春には意味不明な難題を突きつけてきた。知らないことを知っている前提で言われるなんて当たり前だったし、今思いついたことを数年前からの常識みたいに言うこともあった。

 完璧主義で、酒癖は最悪で最低。部屋は誰よりも汚く、遅刻は当然。人当たりは気分による。金は返ってこないし、人間関係はほとんど破綻していた。


 放っておけばあっけなく死んでしまいそうな人。人としての価値は最底辺な人。けれど彼女の美しさに春が堕ちていくのはあっという間だった。


 春は彼女にありったけの夢を見た。初めて見た才能だった。


 千春はよく春を美術館に連れていき、そのあとは決まって公園で日が暮れるまでコンビニで買った酒を片手にぼんやりとしていた。

 今日みたものについて話すこともあったし、教授に言われたダメ出しについてや、彼女の作る作品についての話を聞いた。


 千春は友達がいなかったのだろうと春は思っている。

 何も知らない春をその人はいつも当たり前のように誘った。こないなんて考えもしていないみたいだった。実際に春は呼ばれれば必ず千春の所へ行ったし、呼ばれなくても千春のそばにいた。


 それでも春は最初、恋を否定して尊敬と友情によって千春のそばにいた。というより、ほぼ世話係、もしくは奴隷のようなものだった。そして気づけば半同棲状態になり、今まで付き合ったどの恋人よりも近い距離に千春がいた。


 だけどその時には、すでに千春と春の関係は友達を超えられなくなっていた。

 彼女はその線引きを決して誤りはしなかった。絶対にその一線は越えないのだと神に誓っているようにも見えた。

 春が望んだ関係を千春は決して望まず、二人をつなぐ愛は二人の禁域になった。


 最低な恋だった。今ならそう言える。


 一本目のビールが空になり、春は袋からサンドイッチを取り出した。

 サンドイッチのにおいにお腹が鳴り、さっきの美術館での腰痛は空腹からくるものだったのかもしれないと思った。


 今日の展示は全作品撮影ができたから、春は全ての作品を撮っていた。

 スマホを取り出して写真をスクロールしながら、一枚一枚をゆっくりと思い出していく。

 靴音を気にしなくてもいいし立ちっぱなしで腰が痛くなることもないから、美術館で作品を眺めるよりも楽だった。


 美術館に行っても千春は一枚も絵を撮らなかった。


 写真を撮るくらいならネットに載っているし、展覧会の公式図録があると千春は言った。けれど写真を撮ることは春にとってはなじみのないそれらと美術館を思い出すために必要なことだった。

 それに公式図録は高く、家に帰ってから再びそれを眺めるとは到底思えないし、なによりひどく大きくて重たい。要は買ったところで邪魔になるだけなのだ。


 少し悩んでから春は今日撮った写真を一枚だけ残して、あとは全部ごみ箱に捨てた。

 たくさんの絵の写真がフォルダを埋めても、それもまた春にとっては意味のないことだった。


 もしかしたら、それが春が千春との間に見出した妥協点だったのかもしれない。




 大学3年の春、ゴールデンウィーク明けの閑散とした平日の公園で、春は千春にもう会わないことを告げた。


 春の恋心はもうごまかせなかったし、千春が春の恋に応えることも永遠にないのだと受け入れるしかなかった。

 限界だった。二人の関係は最初から分かりきっていた展開に帰結した。

 千春は春を引き留めず、その日を境に二人は昨日までが嘘みたいに話すことも会うこともなくなり、そしていつのまにか千春は遠くに飛んでいった。


 二本目の檸檬サワーを開けると気の抜けた音が響いた。

 サンドイッチをアルコールで流し込みながらふっと息を吐けば、チーズの匂いと苦い檸檬の味が鼻を抜けた。


 それから何年も経った今でも、春はひとり週末に美術館へと通っている。


 一枚だけフォルダに残した絵を春は眺めた。

 何でもない小さな一枚の絵だ。ひどく暗く、不幸せそうな公園の絵だった。

 その公園は絵の中で果てしなく広がっていた。夜の公園かなと思ったけれど、違う気がした。夜にしては明るすぎる。

 絵ってそういうものかなと思って、首を振った。


 これはきっと、濁った後悔と不幸、そして幸せへの懐かしさだ。


 何をみてもわからなかった感情がようやく春の中に浮かんだ。どれだけ名画を眺めてもわからなかった感情が、絵に込められた諦めが、手に取るように見えてきた。


 もしかしたら私たちは同じ、いびつでくだらない景色を見ていたのかもしれないと春は思った。


 笑えた。意味を見出せるようになった春自身ではなく、こんな絵を描いて招待状を送りつけてくる彼女と、性懲りなく彼女を追いかけていた春の滑稽さに涙が出そうだった。


 報われない日々を繰り返し、その日々に幸福を見出そうとしていた。だけど千春とのあの時間に意味なんてなかった。

 ただ私は彼女を愛していて、私たちは幸福だった。


 暗くて、悲しくて、絶望に満ちた絵を、春は綺麗だと思った。


 最低で最悪な千春は本当に美しかった。

 他人の恋心を知っていたくせにもてあそび、勝手に決めて、勝手に逃亡して、それでも招待状なんかを送り付けてくるあいつも、自分で終わらせたくせに何年もたった今でも同じ服を着てあの日を繰り返している自分も、どっちもたぶん最低で、最悪だなんだと春は思う。


 似た者同士だったのかもしれない。お似合いだったのかもしれない。私が千春への恋を知らなかったら。彼女が私に恋をしてくれたら。

 もしもについて春は考える。もしもの先にある私たちの幸福について。


 風にあおられて不安げにカタカタと揺れている二本の空き缶をコンビニの袋に突っ込んで、春は立ち上がった。


 春が終わる。もうすぐ梅雨が来て、それから苛烈な太陽が世界を照らす、夏が始まる。



 「小宮千春展」


 帰り道、駅の構内には彼女の名前がいたるところに貼られていた。






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