岐路
突然、眼前に手が迫ってきた。そしてその手は俺の頬を撫でると親指で目もとをなぞる。慌てて顔を引っ込めようとするも体勢を崩した俺はそのまま後ろに倒れこむ。
「ちょっ!」
「大丈夫?」
倒れると思って咄嗟に伸ばした手を引っ張られる。彼の空いているもう片方の手は俺の腰を支えている。見た目とは裏腹に力強く。
一体全体何でこうなった。というかこの状況は何なんだ。
脳内に許容量を超える情報が詰め込まれ、危うくショートするところだった。
「リヒトは危なっかしいね。壁に寄り掛かりなよ」
誰のせいだ。
危なっかしいも何も、お前が何もしなければ俺はバランスを崩すことも、キャパオーバーしかけることもなかった。
抗議のためにも少し睨んでおく。
「ほら、怖い顔しないで壁際にいきなよ」
「わかったから触るな」
動けないとでも思われたのか腰の下とひざ元に手を入れかけられた。動けないのではなく動かなかっただけなのに。それだけで所謂お姫様抱っこをされそうになった。
仕方がないので従う。
俺の中でのメア様はゲーム知識を含めて、一国の王子らしい人という印象があったのに、今はそんな影はない。こんなのはキャラ崩壊だ。
悪戯っ子の笑みを浮かべて、心から楽しそうにしている。俺からしてみれば不服でしかない。催眠魔法のかかった俺を揶揄って何が楽しいのか、いや、揶揄っているからこそ楽しいのか。最悪だ。
「もう一度聞くね。リヒトの食欲不振の理由は何かな?」
「……」
「話さないのなら、こちらも強硬手段をとるよ? いいの?」
「……何をする気だ」
「その身をもって知るんだね」
すぐに俺は離さない選択を取ったことを後悔した。
「リヒトは何でそんなに愛想が悪いのかな? 僕の身分を忘れてないかい。それともエーファに迷惑をかけても何も思ってないとか。もしくは自分以外どうなっても構わないのかな?」
精神をえぐられていく。
愛想が悪いのはそれがリヒトのデフォルトだから。身分を弁えてないのもそのせい。エーファ様に迷惑をかけるとも理なんて毛頭ないし、自分以外のことだってちゃんと考えている。
言い訳でしかなくても俺の意思ではない。
「どうしたの? 僕は事実を言ってるだけだよ。何で当事者が被害者のような顔をしているのかな? 今までの言動を思い返してもみなよ。一介の執事とは思えないくらいの傍若無人さだよね。未だに誰にも罰されていないのが不思議なくらい」
「……だから、何だ…………」
弱々な精神状態に追い打ちをかけられた俺は、必死に声を絞り出して反論しようとする。
「ねえ、だから僕にその理由の全てを話してみなよ。僕としても君を罰するのもエーファを巻き込むのも本心ではないのだよ。エーファを苦しめたくないなら、僕に全てを話せ」
プツンと糸が切れるような音がした。
「俺は……」
「うん、何?」
「……俺には、前世の記憶がある」
「うん」
「その中には、この世界についての知識もあった」
「うん」
「そこで、リヒトは人間側を裏切る悪人だった」
「うん、それで」
「俺はそんな奴になりたくなかった」
「そうだね」
「だから抗いたかった。でも……」
「でも?」
「俺は普通に離せないし、表情だって動かないし、妹も煩雑に扱うし……。俺には初めから全てがなかった」
「……うん」
「でもエーファ様は俺にチャンスをくれた。こんな俺にも慈悲を与えてくれた」
「うん」
メア様は俺の隣に再度腰かけ寄り添うと頭をそっと撫でる。俺は気にせずに話し続けた。
「やっと光が見えた。エーファ様に恩を返していこうと思った」
「うん」
「出会ってから一年半は平穏だった。俺のこの変な悪癖で生じる問題も些細なことだった」
「うん……」
「でも入学して全てが、変わった」
「うん……」
「……入学式は楽しかった。先輩とも話せたから。でも二日目からは最悪だった」
「うん」
「魔法属性が判明して皆俺を避けるようになった」
「……うん」
「愛想もよくないし、味方もエーファ様だけ。俺には何をしてもいいみたいに捉えられて、一人でいるときはよく陰口を言われた」
「うん」
「魔法属性は個人の五感にも多少なりとも影響を与える。俺は陰鬱な声がよく聞こえた」
「うん」
「謂れのない中傷。怖れを含んだ視線。誰も近づきたがらない。俺の隣には常に悪意と恐怖が存在し、それ故に彼らにとって淘汰される存在となった」
「うん……。それで君はどう思ったの? 悲しくなかったわけないよね……」
その声は俺の心情を代弁するように悲しい色を纏っている。
俺の行き場のなく彷徨っている目をメア様は見ている。一回も逸らすことなく。
「…………っ」
「……ほら、おいで」
メア様は頭を撫でていた手を肩に添えると自分の方に抱き寄せた。力の入らない俺はその力に導かれるまま、腕の中にいる。メア様の腕の中は温かい。
何度も頭を撫でてくれる。優しく、心のこもった手つき。
「鳴かぬ蛍が身を焦がすっていうもんね。大丈夫。僕は君を嫌ったりしないよ。もし君が敵になるかもしれない未来があったとしても、今の君のことを信じている。その運命に抗いたいと言った君を」
初めて人前で泣いた。というかそもそもこの世界で初めての涙だと思う。
理不尽な仕打ちはこの世界を知った時から何度も想像したし、実際に遭ってもきた。だが、今回の一連の出来事は今までの比ではないくらい俺にとって苦しいものだった。
五感への影響は十人十色。魔法属性によって左右される。
風魔法は周りの音を拾いやすかったり、土魔法は気配を感知しやすかったり、、、。
個人によっては炎属性でも水属性よりの影響を持っていたりと様々。原理はあやふや。




