炎天
「「頑張れ」
コートに向けられた鋭い声援が、俺の耳に届いた。
気温33℃、地面からの熱ですでに意識は限界に近かった。
握りしめたラケットのグリップがねちゃねちゃしている。「やってられるか」と叫んで、観客席にラケットを投げつけた。警備員が俺を取り押さえようとしている。
騒然とする観客、呆然とする対戦相手。あまりにもスポーツマンシップに反する俺の行動は時間が止まったのかと錯覚させる。
試合は一時中断されコート脇に歩いていくとき、相手のこちらを睨みつける顔がちらりと見えた。
こちらを睨みつける顔がだんだん自分に見えてきて、そこにめがけて吐きつけた唾を飲み込む。手足がしびれて膝から下がなくなったと思うと、頭をコートに打ち付けていた。
困惑を帯びていた衆人の声は、純度の高い悲鳴へと変わっていた。しかしごく一部の人間は「また始まったか」という表情を浮かべている。
夏の炎天下の中、知らない人間が見ると暑さにやられたのだろうと思うことだろう。
しかし俺は正気であった。必ず、この男は殺さねばならない。背中を火で炙られている。その火が俺に向かって殺してくださいとささやき続けている。それも昨日からだ!
対戦相手のこの男は、声援を送っていた女のもとに駆け寄り、かばうように肩を抱いている。その光景が俺を追い立てる火の勢いをさらに強くする。
俺はあの男だ!この火こそが俺にとっての彼女だったのだ、であれば負けるはずがないだろう!
「退場!」コート脇の高い椅子に座った男が叫んでいる。きっと試合続行の合図だろう。おもしろい、相手にとって不足はない。俺は新しいラケットを取り出して、エンジンをかけた。」
ここまで書いて、パソコンの電源を落とす。特にイヤなことがあったときに思いついた言葉を羅列する数少ない俺のストレス解消方法。
そもそもあの男がいなければ…俺はそう思いながら外出の支度をする。
「熱っ」一瞬、背中に痛みが走る。しかし、振り返った所で何もない。一体さっきの熱は何だったんだろう? 火で炙られるなんて、さっきの小説じゃあるまいし……。そう思って俺は、自衛とあの男を殺す為に、バイクに跨った。さあ、あの場所に行くとしよう。
目的のテニスコートに向かう途中、三年前のあの男との因縁を思い返す。あれは当時付き合っていた自衛真紀と炙りカルビを食べに行った日のことだった。
その時だった、横から唐突に飛び出てきた自転車への反応に遅れた俺は歩道の植え込みに突っ込んでしまう。受け身をとった瞬間背中の痛みが蘇る…そうだ、バイクの荷台には「あれ」がある。
チェーンソーキャノンだ! チェーンソーキャノンの群れだ!
荷台の中からチェーンソーキャノンの群れが出てくる。その群れが自転車の運転手を襲い、瞬く間にその姿かたちを溶かしていく。
群れは次の獲物を探しているみたいに見えた。背を向けて逃げ出したが一瞬反応が遅れてしまったため、すぐに襲われてしまう…薄れゆく意識の中、俺は炙りカルビだった。
そうだ、俺は炙りカルビだった。チェーンソーキャノンの足を掴み、群がるチェーンソーキャノンに一矢報いなければ。身体から油が浮き出る、破裂させるなら今か。
その時だった!身体から浮き出た油にチェーンソーキャノンから吹き出る炎が燃え移り、周囲を焼き尽くしていく!たまたま通りかかったあの男も俺の憎しみの業火に焼かれている…!?
かくして俺とあの男は再び相見えることとなった。俺が日夜ストレス発散に書き散らしていたあの小説のごとき場面だ。「The best of 5set match, burnedKARUBI to service play!」コート脇の高い椅子に座った男が叫んでいる。
1800℃に熱されたコートがリングだ。あの男と俺、お互いが得物を構える。先に仕掛けたのは――
「僕と付き合ってください!」あの時と同じように男が機先を制す。「ラブーフィフテーン」不遜な声が高い椅子の上から聞こえる。
そう、あの時…神台寺の境内で少年たちが囲んでいた七輪、あの時俺たちの戦場はそこだった。
溢れる肉汁! はじける笑顔! 不始末で燃え上がる境内!
相手に対抗するように「いや!俺と付き合ってくれ!」と力の限り声を上げる。燃え上がる境内から助けを呼んでいた少年たちのように。「フィフテーンオール」これで勝負は五分だ。あの時と全く同じ展開。
警察です。署までご同行願えますか。
連れていかれた先は、炙りカルビ屋だった。目隠しをされて、パトカーから降ろされる。手錠は外れない。店に入った途端嗅いだことのある匂いがする。大麻の臭いだ。
「警察署…?この香りが…?妙に落ち着く香りだ……」炙りカルビ屋からいつも買っているあの匂いを確かに感じる。「じゅうしょうだな」競馬の話を始めた警官の声が頭の上を通過する。
重賞…聞いたことがある。重賞とは競馬の競走のなかの目玉となる大きな競走である。重賞の開催は事前から告知を行い有力馬を集め、多くの観客を集めるための看板となる競走である。
ラジオから実況が聞こえる。「先頭はオコメジャップ。4馬身開いてノワキ。そして最後尾にチェーンソーキャノン。オコメジャップかかっているかも知れません。おっと、チェーンソーが上がってきた。馬場状態は良好! きっちり3000℃に熱されて、ターフからは塩化ガスが発生しています!」俺は立ち上がった。
チェーンソーキャノンが!俺の愛馬【チェーンソーキャノン】が勝つかもしれない!その興奮が、俺に力を与える。外れなかった手錠はその力によって砕け散り、周囲の警官を吹き飛ばす。
その瞬間だった、チェーンソーキャノンがノワキに【喰らいつく】!
ノワキが炙りカルビになっていく。ラジオの映像からチェーンソーキャノンと化したオコメジャップが現れた!
そこで目が覚める。ひどい悪夢を見た。昨日の競馬での大敗は俺の精神に多大な負荷をかけていたらしい。
目が覚めた。が、どこかおかしい。目が見えないのだ。おまけになんだか背中が熱い、例えるなら生きたまま炙られているような…
手足がしびれて……いや、手足がない! 殺すなら殺してくださいと叫びたくても口がない!
すべてを悟った。俺は炙りカルビだと思っていた人間じゃなく、炙りカルビそのものだった。神台寺を感じる。住職の口に運ばれる俺は、ひどく幸せな気持ちだった。
完